東洋王座挑戦・獲得
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日本王座を1度防衛後の1953年1月4日、ソムデス・ヨントラキットとOBF東洋ウェルター級王座決定戦を争うが判定負けを喫した。日王座を2度防衛後の同年6月15日、ヨントラキットとの再戦でOBF東洋ウェルター級王座に挑戦したが判定負けを喫し、同年6月26日、日本ウェルター級、日本ミドル級の両王座を返上した。 1954年1月18日、共立講堂で日本ウェルター級王者横山守に判定勝利を収め、王座を獲得した。 同年3月22日、トニー・アルデゲールと初代OBF東洋ミドル級王座を決定戦で争い、6RKO勝利を収めて同王座を獲得。さらに同年4月19日、アルデゲールとの再戦で同王座の初防衛に成功した。 同年7月2日、大阪府立体育館で行われた横山守との通算5度目の対戦に判定勝利を収め、日本王座の初防衛に成功した。 1955年4月20日、ソムデス・ヨントラキットに11RTKO負けを喫してOBF王座を失った。当時26歳ながら90戦程度を経験し、本来の動きは見られなくなっていたが、日本ミドル級王座を2度防衛後の同年12月3日、ヨントラキットの返上により空位となったOBF東洋ミドル級王座をセーマ・クラスクと争い、判定勝利を収めて同王座を獲得した。 1956年1月8日、大阪府立体育館で大貫照雄に判定負けを喫してOBF、日本の両ミドル級王座を失ったが、同年4月9日、後楽園ローラースケート場で大貫に判定勝利を収めて両王座を奪回、さらに同年10月3日、後楽園球場で大貫に6RKO勝利を収めて両王座の初防衛に成功した。1957年6月1日、ダウソン・シンガバロップに判定負けを喫してOBF王座を失った。日本王座を11度防衛後の1960年10月22日、海津文雄の持つOBF東洋ミドル級王座に挑戦したが判定負けを喫した。 1962年6月3日、後楽園ジムで行われた日本王座の14度目の防衛戦で前溝隆男に10R判定負けを喫して6年あまり守った王座を失い、この試合を最後に現役を引退した。 2002年9月19日午前3時47分、脳梗塞のため東京都品川区の病院で死去した。
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