東洋紡績伊勢工場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:10 UTC 版)
東洋紡績伊勢工場(とうようぼうせきいせこうじょう)は、1922年(大正11年)7月に東洋紡績山田工場として完成した紡績工場。1972年(昭和47年)に伊勢工場に改名して、三重県伊勢市船江1丁目に立地していた。1999年(平成11年)に工場が閉鎖された。伊勢工場の跡地はミタス伊勢などの商業施設や伊勢赤十字病院となった。
- ^ 宇治山田市役所 編(1929):683, 687ページ
- ^ 宇治山田市役所 編(1929):686 - 687ページ
- ^ 田中陽"不の解消に挑む① ファンケル会長 池森賢二さん"日本経済新聞2005年5月6日付夕刊、3ページ
- ^ 奥村薫「ふるさと再発見 楽団青い鳥 戦後社会 生の喜び歌う」中日新聞2018年2月10日付朝刊、伊勢志摩版16ページ
- ^ 三重県近代化遺産(三重県教育委員会)101頁
- ^ 伊勢市 編(1968):298ページ
- ^ "繊維地帯も減産 東洋紡が3000人自宅待機"朝日新聞1993年3月3日付朝刊、名古屋版23ページ
- ^ "東洋紡、三重と香川の2工場を今年度中閉鎖 海外に比重移す"朝日新聞1996年6月1日付朝刊、大阪版13ページ
- ^ "東洋紡、生産能力を4割削減 綿紡績の伊勢など2工場閉鎖"朝日新聞1996年7月3日付朝刊、大阪版13ページ
- ^ 「伊勢市長選候補者に聞く」朝日新聞2000年4月18日付朝刊、三重版22ページ
- ^ "公有化の請願を市議会が採択 伊勢の東洋紡跡地"朝日新聞2000年9月26日付朝刊、三重版28ページ
- ^ 三重県近代化遺産(三重県教育委員会)102頁
- ^ 三重県近代化遺産(三重県教育委員会)101頁
- 1 東洋紡績伊勢工場とは
- 2 東洋紡績伊勢工場の概要
- 3 参考文献
東洋紡績伊勢工場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 07:55 UTC 版)
「船江 (伊勢市)」の記事における「東洋紡績伊勢工場」の解説
東洋紡績伊勢工場(とうようぼうせきいせこうじょう)は、1922年(大正11年)7月に東洋紡績山田工場として、精紡機24,000錘をもって開設された。1926年(大正15年/昭和元年)時点で職員32人、工員3,082人(うち女性2,549人)、その他の従業員167人で、1年の生産額は6,978,040円であった。これは、2番目に大きかった綾部製糸度会工場(二俣町)の6.7倍という圧倒的な生産額である。戦前には精紡機を61,708錘、織機を2,016台、撚糸機3,200台まで増設したが、宇治山田空襲でその大半を失った。ファンケル創業者の池森賢二の父は戦前、東洋紡績山田工場で電気技師として勤務していた。 戦後、工場は復興を果たし、1965年(昭和40年)時点で696人の従業員(うち女性541人)を抱え、ブロードなどシャツやブラウス生地を主力製品としていた。社員向けの教育にも力を入れ、「東紡山田高等実務学校」と「東紡准看護婦養成所」を開設した。工場の敷地面積は15.3haであった。 末期の1993年(平成5年)3月中には、5日間操業休止を行い、従業員に自宅待機が指示された。1996年(平成8年)の末には織布部門の操業を停止し、残った綿紡績部門も1999年(平成11年)7月2日の発表で同年中に閉鎖することになった。工場は1999年(平成11年)に閉鎖された。 その後、2005年(平成17年)に東洋紡と三重県が行った調査で、工場の敷地から使用していないはずの鉛が環境基準値の最大43倍検出されたが、溶出のおそれはなく、周辺への影響はなかった。
※この「東洋紡績伊勢工場」の解説は、「船江 (伊勢市)」の解説の一部です。
「東洋紡績伊勢工場」を含む「船江 (伊勢市)」の記事については、「船江 (伊勢市)」の概要を参照ください。
- 東洋紡績伊勢工場のページへのリンク