東方属州の伝統的建築と地方様式
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 20:17 UTC 版)
「ローマ建築」の記事における「東方属州の伝統的建築と地方様式」の解説
ギリシア、小アジアのエーゲ海沿岸部では、ヘレニズムの伝統が常に生き続けた。古代から繁栄を続けていた都市には、西方からの影響はほとんどもたらされず、アテネに建設されたアグリッパのオデイオンなどは、イタリアの特徴を備えているという、その特異性からむしろ注目される。東方属州も最終的にはローマの意匠と建築・土木工学を受け入れるが、バシリカですら小アジアでは2世紀になってようやく導入されるほどで、比較的すんなりと受け入れられた建物は公共浴場と劇場に限られる。エフェソスやミレトス、アンキュラ(現アンカラ)などにその遺構が残るが、浴場は東方属州において先例となる施設がなかったため、イタリア形式のものがそのまま建設された。劇場についても、ヘレニズム時代にアナトリア半島を含む東方ではほとんど建設されていなかったため、ローマ時代に導入されたものが多く、その形式もローマ特有の形式となった。その他の建築物、例えば闘技場などは、結局、全く採用されることはなかった。 ただし、ローマ軍の拠点都市では、かなり強力なローマ化が計られた。代表的なギリシアの都市が属州アカエアの州都コリントスである。コリントスは古代ギリシアを代表する都市であったが、紀元前146年にローマによって完全に破壊され、現在の遺跡に古代ギリシアに由来するものはほとんどない。コリントスの都市としての骨格はオクタウィアヌスによって造り変えられたものである。東方属州のなかでも、シリアではオクタウィアヌスの時代が建築の転換期となった地域が多く、ヘレニズムの伝統が比較的浅い地域では、これが顕著に現れている。建設者としての才能を持っていたヘロデ大王は、アゴラ、ストアなど、都市の中心施設をヘレニズムの伝統を持った建築としたが、水道橋や浴場、闘技場のほか、神殿をローマ式で建設している。さらに、彼が共和制末期のローマ都市に採用されていた街路側面の列柱を採用して、アンティオケイアに建設した列柱道路は、その後シリアからアフリカの都市に大々的に導入された。ユピテル・ヘリオポリス(現バールベック)はローマの神々ではない土着神の信仰中心地であるが、アウグストゥスが都市を改編した後、徹底的にローマ化され、さらにアントヌス・ピウスからカラカラの時代にかけて巨大な神殿が建設された。アウグストゥスの時代の造営には、首都ローマの国家建築を建設した人々が動員されたことが知られている。バールベックのようなシリア的ローマ建築は、アンティオケイア、ダマスカス、ゲラサ、パルミラなどで見られるが、例えば巨大な列柱道路、中央アーチの左右に水平梁を配置するペディメントなどは、瞬く間に小アジアの都市を席巻し、初期ビザンティン建築においても広く採用された。 シリア的意匠が小アジアのみでなく、地中海沿岸部にかなり早く広がったことは、ローマ建築における首都の影響力がますます低下していったことを意味する。2世紀には属州の文化的・経済的水準は首都ローマに匹敵するほど底上げされており、建築のアイディアは首都ローマを経由することなく、属州相互の間で交換されるようになった。また、属州では、イタリア半島のように良質なローマン・コンクリートを得ることができなかったため、建築材料は主に煉瓦を用いたものとなった。煉瓦でヴォールトを構成するという、西方世界ではほとんど採用されることのなかった技法は、やがてローマ建築の新しい手法となり、後にビザンティン建築に継承される。
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