東京湾の女王とは? わかりやすく解説

東京湾の女王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 21:32 UTC 版)

橘丸」の記事における「東京湾の女王」の解説

設立当初房総半島方面への航路しか有していなかった東京湾汽船だが、1907年明治40年)に東京府命令航路として伊豆大島および伊豆諸島にも航路開設する初期には100トン級、大正時代には最大400トン弱の小型貨客船主力占めていたが、昭和時代入り歌曲波浮の港」の大ヒット三原山への相次ぐ投身自殺による「自殺の名所」化によって、伊豆大島への観光客大幅に増加した。これに先立ち東京湾汽船では旅客メインとした貨客船である1929年昭和4年)に「菊丸」(780トン)を、1933年昭和8年)には「丸」(938トン)を建造し観光客の増加に対応させていた。しかし、「大島ブーム」を見て取った東京湾汽船では「丸」の姉妹船建造計画大幅に見直し、「丸」の倍ある大型船投入する事を決意したこのような経緯建造されるになった橘丸」は、三菱重工業神戸造船所建造発注される。「橘丸」の特徴としてはいわゆる流線型上部構造利用した最初の「流線型客船であったが、当初異なデザインだった。「大島ブーム」と同様に流線型ブーム」を感じた東京湾汽船専務は、「橘丸」を流線型客船にするよう要請する。しかし、南波松太郎主任設計技師指導の下で基本設計がすでに終わっていたため、サロン船橋および煙突各部流線型採用するに留まった。1935年昭和10年6月3日2130分、「橘丸」は東京湾汽船当時ターミナルである霊岸島から初の商業航海出発し木更津沖で時間調整の後、6月4日5時に元村沖、7時下田港到着した就航後世間のみならず船舶ファン日本商船界からも大い注目集め、「東京湾の女王」という異名授けられた。しかし、大型ゆえに難問もあった。それらは主に「橘丸」が主因のものではなく、「橘丸」を迎えインフラストラクチャー、すなわち港湾施設であるとか、世情主因があった。港湾施設の面では、当時下田港伊豆大島港湾施設は「橘丸」の接岸に対応できなかった。下田港では1937年昭和12年)に岸壁完成するまで、伊豆大島では1940年昭和15年)に岡田港完成するまで、ともに「橘丸」を沖合い止めて交通船往来していた。世情の面では、想定したほど観光客の数が多くなく、既成船でも十分対応できる時期には運航休止していた。それに加えて昭和12年勃発した日中戦争により観光客の数はいっそう減る事となった。このため、「橘丸」は就航わずか2年足らず休航することが多くなった。

※この「東京湾の女王」の解説は、「橘丸」の解説の一部です。
「東京湾の女王」を含む「橘丸」の記事については、「橘丸」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「東京湾の女王」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「東京湾の女王」の関連用語

1
6% |||||

東京湾の女王のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



東京湾の女王のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの橘丸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS