本田宗一郎との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 07:07 UTC 版)
「中村良夫 (自動車)」の記事における「本田宗一郎との関係」の解説
中村と本田の関係を説明することは難しい。まず、「本田像」とでも言うべきものが、初期には業界の(内々の)伝説であったものが、やがて企業広告の一部となり、また日産や豊田のような大手ではあくまで企業として、たとえばスカイラインの広告としてコントロールされた下で桜井眞一郎といった人物像が作られたのに対し、本田の場合はHondaというブランドイメージそのものを体現する人として、また「立志伝中の人」として第三者による伝記等も多く、あくまでエンジニアとしての視点から物事を綴った中村の文章と、前提に違いがあるからである。 またそのように本田のイメージが一般向けには作られた一方で、モータースポーツや自動車のような「マニア筋」の多い世界では、10年もすれば雑誌等で、非公式的な「あの時、実は」といったようなエピソードも語られ始めるのが常である。空冷の件など、ある時期を過ぎればそちらのほうが何度も語られるようになって、さらに逆のフォロー等も必要になったりするわけである。 たとえば、後年の述懐としては、「世間では、オヤジさんと私が仲違いしたように受け取られているようだが、空冷か水冷かをめぐる喧嘩はあくまで技術論上のやり取りであって、どうも誤解されているようだ」という言葉や、その技術的な対立についても全体的に見れば、「本田社長と完全に意見が一致した項目のほうが、意見が一致しないで従業員の立場にある私がやむを得ず屈しなければならなかった項目よりはるかに多かった」といった言葉もある。もちろんその一方でその「技術論」としては、空冷水冷の件で「結局、本田社長はもっとも基本的な熱力学の物理法則を理解していないので、いくらいっても論争がかみ合わないのです」という辛辣な言葉もある。従って、ひとつひとつのエピソードや残された記述をそのままに解するのではなく、その前後の流れや背景を読み解く必要があり簡単ではないのである。 「人間としては尊敬できるが技術者としては尊敬できない」と語るように、両者の関係は良好とは言い難い部分があった。中村の場合、単にF1活動だけをやっていただけではなく、本田技研の市販車の開発責任者でもあり、F1参戦初年度(1964年)はチームを率いて現場を回るが、翌年は市販車の開発に比重を置くために本社に残留し市販四輪車の基礎を担った。この状況が本田との軋轢の要因となる。本田が空冷エンジンに固執し、「走る実験室」と呼ばれたF1だけでなく市販車にまで技術的に限界のある空冷で押し通すのは本田技研にとってマイナスであり、本田の理工学的な無理解、そして開発において強大な権限が本田にあり決定が下されると技術者はそれに従うしかない状況(中村が企画したホンダ・シビックが却下され、本田の推す空冷エンジン搭載のホンダ・1300が企画が通るなど)に対しこのような社長の下で働くことに対して嫌気がさし中村も一旦辞めることを決心したが、河島喜好ら役員の「本田宗一郎はもうすぐ引退させるから」という慰留によりヨーロッパ事務局を設立しロンドンで約3年を過ごす。その3年間は時おり帰国して本社に出勤するも、本田とは一度も顔を合わせない徹底ぶりであった。また、「世間に流布された『本田宗一郎』とは藤沢武夫が世の中に受けるように脚色した虚像であって真実ではない」と自著『ひとりぼっちの風雲児』において指摘している。これは藤沢自身が、最後の仕事として、この虚像を打ち消さねばならないと言うのを、中村も聞いているという。 しかし、一方で「人間としては尊敬できる」と語るように特定産業振興臨時措置法案をめぐり、普通の社長なら今後のことも考えて役人と適当なところで妥協するだろうが、本田宗一郎は会社と従業員を守るために徹底的に官僚と戦った点などを評価している。
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