本人インタビュー記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 14:27 UTC 版)
以下は全て『別冊女性自身 皇室特集号 天皇から紀宮まで激動の70年』昭和46年5月1日発行 pp.104-106「大正時代のなつかしき花の青春」からの引用である。 1913年(大正2年)飛島常矩との結婚、また女優となったきっかけ:「そのまま、ズーッといけばただの奥さまだったのよ。ところが、女学校時代の友だちが浅草にいて、“新派で女優さんを募集しているわよ。はいってみなさいよ”とすすめるんです。ええ、両親は大反対。でも、夫が芝居に関係した人でしたから、まあどうにか説得して‥‥」 赤玉ポートワイン(セミ)ヌードポスターのモデルとなった経緯:「それでね、“寿屋”の本社がある大阪で公演しましたとき、初代社長の鳥居信治郎(注:原文ママ)さんがみえましてねえ。とつぜん“ポスターを作りたいんや。モデルになってくれ”とおっしゃるんですよ。“はい”ということで、たしか大阪の川口写真館というところで、まる2日もかかって撮影したのが、ええ、この写真なんですよ‥‥」 (セミ)ヌードポスター撮影時の感想:「いいえ、舞台でも胸のあいた衣装を着ていましたから、はずかしいとは思いませんでしたよ。 それより、私みたいなものをモデルにして、うまい写真がとれるかと、そればかりが心配で‥‥」 ポスター撮影から1年経ての公開当時の感想:「私はね、やっぱりモデルがだめだったので、ポスターにはならないんだろうと、しまいにはあきらめていたんですよ。それが、やっと1年目に町中に貼り出されて、うわァうれしい‥‥と思ったら、関東大震災でしょ?」 結婚と芸能活動について:「ところが、どこかの新聞が“松島栄美子には夫がいる”と書いたんですよ。いいえ、私は人妻であることを、いつでも公表するつもりだったんです。でもねえ、マネージャーが反対するんで、それで隠しておいたんですけど、これが逆目に出ちまって、人気はガタ落ち。‥‥そうねえ、いまも昔も、芸能人とマスコミの関係は、よく似てますよ」 NHKの前身・東京放送局について:「それから、ずいぶん、いろいろなことがありましたよ。そうそう、東京・芝の愛宕山に放送局ができて、“JOAK、こちらは東京放送局でございます”なんていうのをレシーバーを耳にあてて聞いたのは、大正も終わりごろでした。はい、大正14年でしたかね‥‥」 東京の空襲について:「なにしろ、あなた、家が本郷にあって、あの後楽園の野球場の近くでしょう。後楽園には高射砲の陣地があって、アメリカの飛行機がくれば、ドカン、ドカンと撃つんですもの、敵だってあなた、焼夷弾をバラまきますよ。それで、ボーッと燃えちまって、すっからかん‥‥」 戦後、赤玉ポスターの思い出話を知り合いの新聞記者に語り、それが記事にされた後のこと:「そうしたら、佐世保の床屋さん、理髪店っていうんですか、その人から手紙がきましてね。“あのポスターは、自分の娘のように大切にして、額に入れて飾ってある”というんでしょう。もう、もう私、うれしくってねえ」 戦争と、鳥井社長から送られたダイヤの指輪について:「それにしても、戦争はいけませんよ。いまの天皇さまもご苦労なさったし‥‥それに第一、私が鳥居(注:原文ママ)社長さんからいただいた、ダイヤの指輪。あれだって、戦争中に政府へ供出しなければ、非国民だからひどい目にあわされるっていわれて、惜しくてたまらなかったのに、供出しちゃったんですもの。いま思っても、残念で、残念で‥‥」
※この「本人インタビュー記録」の解説は、「松島栄美子」の解説の一部です。
「本人インタビュー記録」を含む「松島栄美子」の記事については、「松島栄美子」の概要を参照ください。
- 本人インタビュー記録のページへのリンク