最後の哨戒 1944年5月
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「ヘリング (潜水艦)」の記事における「最後の哨戒 1944年5月」の解説
5月16日、ヘリングは8回目の哨戒で千島列島方面に向かった。5月21日にミッドウェー島に寄港して燃料を補給後出港。10日後、ヘリングはバーブ (USS Barb, SS-220) と合流するが、その後の消息は不明となり、7月13日付で喪失が宣告された。以下はバーブおよび日本側の記録からおおよそ掴めたヘリング最後の日の出来事である。 5月31日に北緯48度28分 東経151度04分 / 北緯48.467度 東経151.067度 / 48.467; 151.067の地点でバーブと合流したヘリングは、濃霧の中松輪島の西方150マイルの地点でレーダーを使って輸送船団を発見した。この輸送船団は、松輪島から小樽へ回航する空船で構成された輸送船団であり、海防艦石垣が先導していた。ヘリングはバーブと船団攻撃の手順を打ち合わせた後別れた。ヘリングの方が先に船団を確認したらしく、バーブが船団を確認して攻撃態勢を整えようとした時、遠くで爆雷が炸裂する音が聴取された。魚雷を3本発射した後に浮上すると1人の日本人が漂流しており、救助の上尋問すると石垣の唯一の生存者であることが分かり、このことからヘリングが石垣を撃沈したことが分かった。日本側の記録では11時30分ごろに石垣は雷撃を受け、艦首を亡失した石垣はそのまま爆雷攻撃を実施していたようだが、程なく沈没した。石垣の沈没地点は北緯46度26分 東経151度36分 / 北緯46.433度 東経151.600度 / 46.433; 151.600と記録された。バーブも敢然と船団に接近して輸送船を撃沈し、バーブが撃沈していない分、すなわち輸送船北洋丸(栗林商船、1,590 トン)はヘリングが撃沈したことが分かった。船団で生き残った海軍徴傭船岩木丸(大阪商船、3,125 トン)は急遽松輪島の大和湾に引き返した。 6月1日朝7時43分ごろ、ヘリングは大和湾に侵入。魚雷を6本発射して、停泊していた岩木丸の右舷に魚雷を2本命中させて撃沈。同じく停泊していた陸軍船日振丸(山下汽船、4,366 トン)にも魚雷を2本命中させて撃沈した。ヘリングは更なる敵を求めて湾内に深く侵入してきたが、7時56分頃に島の南東端である多岩岬あるいは鵜崎に触礁し、浮上して後進を開始する。これを見た陸上砲台はこの好機を逃さず距離1,200メートルで銃砲撃を開始し、湾内に攻撃目標とならず残っていた陸軍船紅海丸(大阪商船、1,273 トン)も応戦してきた。陸上砲台は12.7センチ高角砲8発、12センチ砲51発、8センチ高角砲63発、各種機銃弾2,986発を発射の上、司令塔に二発命中させた。ヘリングの姿は8時5分頃に、天蓋山の130度3,500メートルの地点で濃霧により見えなくなった。記録には「水泡が5メートル幅の範囲を覆い、重油がおよそ15マイルを覆った」とあるが、「潜航不能トナラシメタルコト確実ト認ムルモ撃沈スルニ至ラズ」とも記された。 しかし、結果的にヘリングは司令塔への命中弾が致命傷となり、その場で沈没したものと考えられている。この際にザブリスキ艦長以下83名の搭乗員全員が戦死した。 ヘリングは最後の哨戒で4隻の日本船、総トン数13,202トンを撃沈し、撃沈総トン数は19,959トンに上った。 ヘリングは第二次世界大戦の戦功で5個の従軍星章を受章した。 なお、へリングへ向け応戦した紅海丸は1945年(昭和20年)6月19日、北緯43度11分 東経140度18分 / 北緯43.183度 東経140.300度 / 43.183; 140.300の積丹半島沖でシードッグ(USS Sea Dog, SS-401)の雷撃により撃沈された
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