最後の哨戒 1943年9月 - 10月
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「ワフー (SS-238)」の記事における「最後の哨戒 1943年9月 - 10月」の解説
9月13日、ワフーは7回目の哨戒でソーフィッシュとともに日本海に向かった。計画では、9月20日ごろに宗谷海峡を通過し日本海に侵入。特定日を過ぎたら北緯43度線以南の海域の哨戒をソーフィッシュに委ね、10月21日に帰投する予定だった。ワフーは千島列島を通過する頃に報告するよう命令を受けていたが、何の音沙汰もなかった。ワフーは、11月9日に失踪が公表されたのち、12月2日に喪失と判断され12月6日に除籍された。当初、ワフーは機雷、もしくは魚雷の事故により喪失したと考えられていた。以下は、日米双方の記録等を参照して推定されたワフー最後の哨戒の記録である。 9月21日、ワフーは北緯45度45分 東経145度00分 / 北緯45.750度 東経145.000度 / 45.750; 145.000の樺太南方で輸送船北征丸(東邦水産、1,394トン)を撃沈。9月25日朝には北緯41度30分 東経139度00分 / 北緯41.500度 東経139.000度 / 41.500; 139.000の地点で応急タンカー太湖丸(東亜海運、2,958トン)を撃沈した。その後は日本海をひたすら南下し、対馬海峡近海に達した。10月5日未明、ワフーは釜山に向かっていた関釜連絡船崑崙丸(鉄道省、7,908トン)を北緯34度14分 東経130度09分 / 北緯34.233度 東経130.150度 / 34.233; 130.150の沖ノ島東北10海里の地点で発見し撃沈する。崑崙丸撃沈は死者・行方不明者583名におよび、その中には助川啓四郎、加藤鯛一の2人の衆議院議員を含み、新聞でも大々的に報じられ、アメリカ側でも同盟通信社発表の情報を傍受した。翌10月6日には北緯37度18分 東経129度33分 / 北緯37.300度 東経129.550度 / 37.300; 129.550の地点で輸送船漢江丸(朝鮮汽船、1,290トン)を撃沈。10月9日未明にも北緯39度49分 東経139度46分 / 北緯39.817度 東経139.767度 / 39.817; 139.767の秋田県男鹿半島南磯近海で輸送船漢江丸(飯野海運、2,995トン)を撃沈した。また、10月2日に七尾到着予定で9月29日に元山を出港したまま日本海で行方不明になった輸送船第二正木丸(日下部汽船、1,238トン)も、ワフーの戦果と推定された。その後ワフーは、日本海で作戦を北上していったと考えられた。
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