最後の哨戒 1945年5月 - 6月・バーニー作戦
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「ボーンフィッシュ (SS-223)」の記事における「最後の哨戒 1945年5月 - 6月・バーニー作戦」の解説
5月28日、ボーンフィッシュは8回目の哨戒でバーニー作戦に参加して日本海に向かった。このバーニー作戦は、この時点の日本に残されたほぼ唯一の重要航路に打撃を与えるものであり、対馬海峡の機雷原突破と日本海を悠然と航行する日本船は、目標の減少に嘆いていた潜水艦部隊にとっては絶好のスリルであり獲物であった。この作戦には9隻の潜水艦が投入され「ヘルキャッツ」 Hellcats と命名された。各潜水艦は三群に分けられ、シードッグ (USS Sea Dog, SS-401) 艦長のアール・T・ハイデマン少佐(アナポリス1932年組)が総司令となった。ボーンフィッシュはタニー (USS Tunny, SS-282) 、スケート (USS Skate, SS-305) と共にウルフパック「ピアースズ・ポールキャッツ」 Pierce's Polecats を組み、第一陣「ハイデマンズ・ヘップキャッツ」 Hydeman's Hep Cats が5月27日に出撃してから24時間後に出航し、対馬海峡に進出した。 リレー式に対馬海峡を突破したシードッグ以下の潜水艦は三群それぞれの担当海域に向かい、6月9日日の出時と定められていた攻撃開始を待った。「ピアースズ・ポールキャッツ」は能登半島以西の沿岸部に進出した。6月16日朝、ボーンフィッシュは北緯38度40分 東経135度24分 / 北緯38.667度 東経135.400度 / 38.667; 135.400の丹後半島の沖でタニーと会合して戦果報告を行ったが、その報告と日本側資料によれば、6月13日に北緯38度30分 東経136度57分 / 北緯38.500度 東経136.950度 / 38.500; 136.950の能登半島輪島の沖合い120キロ付近で、新潟から清津に向かっていた輸送船牡鹿山丸(三井船舶、6,892トン)を発見し、ボーンフィッシュは牡鹿山丸を雷撃によりあっさり撃沈した。牡鹿山丸はバーニー作戦で撃沈した最も大きな艦船だった。ボーンフィッシュとタニーは十分な間合いを取りながら6月18日朝まで共に哨戒を行い、またボーンフィッシュは日本と羅津、清津間の交通路を断つべく富山湾での白昼潜航哨戒の許可を求めた。6月18日朝、富山湾での哨戒の許可を得たボーンフィッシュは、北緯38度15分 東経136度24分 / 北緯38.250度 東経136.400度 / 38.250; 136.400の若狭湾北方でタニーと別れた。これが、アメリカ側がボーンフィッシュを見た最後であった。6月23日、利尻島沖で集結した潜水艦の中にボーンフィッシュがいないことに気づき、タニーは先任艦の務めとして幾度と無くボーンフィッシュとの交信を試みたが徒労に終わった。7月30日、ボーンフィッシュは喪失したと判定された。
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