最初の国産プラモデル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 05:12 UTC 版)
「マルサン商店」の記事における「最初の国産プラモデル」の解説
マルサンは「日本初のプラモデルメーカー」と紹介されている。しかし、事実は前述のとおり、「和工樹脂」というメーカーがマルサンより先にダットサン1000セダンを発売している、また、それ以前に大阪布施の「(株)日本プラスチック」が1956年10月頃に「ゼロ戦」を発売し、その後すぐに1957年春にはゴム動力の「原子力潜水艦ノーチラス号」を発売している。順番で言うならば3番手のメーカーである。 またマルサンの最初のプラモデルのノーチラス号は、金型を自社で作ってはいるものの、レベル社製品を石膏で型取りして雌型を作り、工作機械でなぞって金型に複製した外国製品のデッドコピーである。また過去には、純国産プラスチック・モデル第1号として次のようなキットの名が挙げられていた。 日本模型1/400スケール「伊号潜水艦」 日本模型がマルサンに3ヶ月ほど遅れて1959年3月10日に発売した純国産キット。マルサンのノーチラスがディスプレイモデルだったのに対し、ゴム動力により走行し、価格も100円と安価だったため大人気商品となった。過去にはこのキットが純国産プラスチック・モデル第1号とされることが多かった。 和工1/25スケール「ダットサン1000」 マルサンブランドでノーチラスと同時期に発売された。パーツ構成こそ米国製キットに範をとっているものの、設計自体は完全に日本オリジナルである。発売は1958年10月頃で、マルサン商店のノーチラス号よりも2ヶ月ほど早かった。和工樹脂製品のダットサンの上箱のロゴマークの上にマルサンのシールを貼って発売したものである。 東京練馬区に住んでいた町の発明家「関孝太郎」は車のプラモデル化を企画し、それを日産自動車に持ち込んだ、日産は自社のデザイナーを派遣、200万の資金援助をし開発に全面的に協力した。そして、関は射出成形機メーカーの「日精樹脂工業」の創業者である青木固に金型の開発から製品化までを依頼、その製品化に成功した。ダットサンの後に発売された「ダットサン スポーツ」、「日野ルノー」、「トヨペット」などは全て「日精樹脂工業」が開発製造したものである。 日本模型1/60スケール「ソニー号 ベル47J」 一般販売されたのは1959年の10月であるが、「日本プラモデル50年史」によればソニーの促販グッズとして伊号潜水艦に先行して製作されたものとされる。 NBK日本文化教材社 「原子力潜水艦ノーチラス号」 これは、株式会社日本プラスチックが1957年春頃に発売したゴム動力のノーチラス号の金型により再販された、箱絵を変えキットも組み立て説明図も日本プラスチックのものを使用して発売され、その後説明図だけはNBKのロゴマークに変えられて発売された。発売は1959年2月であり、日本模型の伊号潜水艦の発売は1959年3月10日なので、それよりも一ヶ月早い発売だった。 日本プラスチック1/50スケール「零戦」、「ムスタング」 1956年10月頃に発売、その後すぐの1957年春にはゴム動力のノーチラス号を発売した。株式会社日本プラスチックの登記簿上では1956年3月の設立になっている。 以上のように日本最初のプラモデルが何だったかについてはこれまでいろいろと取りざたされてきたが、これまでの資料、関係者の証言などにより株式会社日本プラスチックが1956年10月頃に発売した「ゼロ戦」が日本初のプラスチックモデルであることが検証され確認された。 ただ、マルサン商店が日本においてプラモデルを大々的に製造販売したメーカーであることは間違いない。テレビ番組の提供も含めた積極的な宣伝活動によって殆ど知られていなかったプラモデルという新商品を広く認知させ、結果として他のメーカーの参入をも促し、マルサン商店が日本のプラモデルのパイオニアと呼ばれるのも不思議ではない。ただ、過去に語られていたマルサン伝説などの物語については関係者などの意図的に作られた証言、模型ライターの調査不足による捏造されたものである。
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