曲輪の用途
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 14:25 UTC 版)
本丸(ほんまる) 城の中枢部であり、本丸御殿のような居住域兼政務域を持ち、戦時には最終防衛線となる。本城、一の曲輪などとも呼ばれる。詳しくは本丸の項目を参照のこと。 二の丸(にのまる) 本丸の次に繋がる主要な曲輪の名称である。本丸と同様に殿舎を建てる場合もあり、城によっては城の中心的機能を持っていたこともある。広島城では、他の城では馬出の位置にある小規模な曲輪を二の丸と称している。二ノ丸とも書く。二の曲輪、二の城ともいう。 三の丸(さんのまる) 二の丸の次に繋がる主要な曲輪で、家臣たちの屋敷が置かれる場合もあった。三の曲輪、三の城ともいった。 そのほか、おもに本丸から見た方角にある曲輪を「(方角)の丸、(方角)ノ丸、(方角)丸」といった。 東の丸 - 明石城・高松城・米子城・西尾城など。 西の丸 - その城の所有主の隠居所として使われる。隠居所としての西の丸は、徳川家康が江戸城西の丸を自らの隠居場所としたことに始まる。姫路城や岡山城にも同様の西の丸がある。 南の丸 - 和歌山城・小諸城など。 北の丸 - 弘前城・高松城・大洲城など。 帯曲輪(おびくるわ) 主要な曲輪の外周に配置される細長い小曲輪。一段低く掘り下げて築いたり、豊臣大坂城のように2重に築いたものもあった。 腰曲輪(こしぐるわ) 山の斜面に削平地を築いた曲輪で、敵を誘い込み高所の曲輪からの掃射の場として使われることが多かった。 捨曲輪(すてぐるわ) 主郭の前面などに戦闘の際に主郭より打って出る為に用いられ、守勢にまわった際には放棄するつもりで築かれた曲輪で、主郭側からは塀などの遮蔽物は作られず、主郭からの攻撃が可能なように築かれた。 こうした曲輪は、敵が主要な曲輪に達するまでの時間稼ぎとなり、また防御側にとって有利に攻撃ができた。しかし城の規模が小さく、ひとつの曲輪が制圧されると、次の曲輪が射程に入ってしまうことも多く、中世の山城の曲輪は、鉄砲を用いた戦いに向いていなかった。 総構・総曲輪(そうがまえ・そうぐるわ) 城下町を、長大な堀や土塁・石垣で取り囲み、大規模な曲輪としたもの。詳しくは総構えの項目を参照。 出丸(でまる) 城の守備が脆弱な箇所の補強や物見などの目的でつくられた、補佐的用途を持つ曲輪。 大坂冬の陣に際して、大坂城総曲輪の南側に真田信繁(真田幸村)が造った「真田丸」などがある。 江戸時代には、武家諸法度により城郭の増築が原則として禁止されたため、岡山城の後楽園のように出丸の機能を併せ持つ大規模な庭園が築造されるようになった。 馬出(うまだし) 「虎口#馬出」も参照 虎口の前面に配置される小曲輪である。単純に敵の虎口への侵入を困難にする目的の他に、虎口を敵から直接見えないようにして味方の動向を隠す、さらに一種の射撃陣地として虎口の防御を有利にする。また小部隊の駐屯施設として城内からの出撃にも用いられる。土塁を築いただけの曲輪とは言いがたい小さなものから、名古屋城・篠山城・広島城のように巨大なものまで存在する。大きく分けて半円形のものを「丸馬出」、方形のものを「角馬出」と呼ぶ。大坂城の真田丸は馬出の一種でもある。 丸馬出 角馬出 天守曲輪・天守丸(てんしゅくるわ・てんしゅまる) 本丸の内にある天守を持つ曲輪、連立式天守や、連結式天守等の形式によって隔てられてできた曲輪。本丸をこの名称で呼ぶ場合もある。城によっては、天守郭や天守曲輪また本壇ということもある。 水の手曲輪(みずのてくるわ) 城の主要な取水施設のある曲輪。山水の滴る場所や井戸などがある。井戸曲輪(いどくるわ)ともいう。 山里曲輪・山里丸(さまざとくるわ・さまざとまる) 遊興のための屋敷や庭園を造営したもの。池を掘ったり築山を築いたり、四阿や茶室などを設けてある曲輪。豊臣期大坂城・姫路城・明石城・伏見城・肥前名護屋城などにみられる。江戸時代には大名庭園として城内だけでなく城外や藩邸にも造られるようになった、江戸城の吹上も山里曲輪のひとつと考えられ、かつては吹上奉行が置かれ、現在は皇居の吹上御苑として残る。
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