時論家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 01:19 UTC 版)
遯吾は時論家としての活躍も目覚しく、特にポーツマス条約が締結されようとした段階の明治38年(1905年)、日露戦争後の民衆は戦争の勝利に酔ってポーツマス条約に不満を表明。遯吾も同僚の博士らと「日露条約批准拒否」の意見書を明治天皇に奉呈した。事態を重く見た政府の対応として、文部大臣久保田譲、東京帝国大学総長山川健次郎の辞任、東京帝国大学教授戸水寛人の休職問題を経て、東京帝大や京都帝大のほとんどの教授・助教授陣の一括辞任にまで発展した騒動で、遯吾は筋の通った頑なな正論とも言える主張を続けた。 しかし山川の意を尽くした懇請に、結局講義は続けざるを得なかった。この間の経緯を詳しくつたえているのが、松本清張作『小説東京帝国大学』である。政界を去った遯吾は、東京物理学校等で講義をし、講演や著作に忙しい以前の生活に帰っていた。『作法と人格教育』(昭和6年(1931年))、『優生学と社会生活』(昭和7年(1932年))、『教育家外山正一先生』(昭和8年(1933年))、『農邨百話』(昭和9年(1934年))、『蔵軒在稿-父の遺稿集』(昭和10年(1935年))等々、多彩な内容である。しかも、時局への関心は変わらず強く、『皇基国体と社会整理』(昭和3年(1928年))においては、共産党員が大量に検挙された三・一五事件に着目し、党の志向を厳しく責めて、検挙弾圧・思想対策のほか、社会全般の点検改善を含む徹底的阻止方策を提言している。さらに『日本帝国の国是』、『世界の動乱と帝国の地位』、『東洋の大勢と青島の運命』と変動する世界の状況を分析したり、また、柳条湖事件直後の『第二満蒙問題と東亜の将来』(昭和6年(1931年))では、軍の方針を支持し、世界平和を維持するため、「日本が満蒙の独立を積極的に援助すべきである」という見解を明示している。政党政治の欠陥を見た遯吾には、軍部の台頭が社会的面からも当然の流れと考えられていたのである。
※この「時論家として」の解説は、「建部遯吾」の解説の一部です。
「時論家として」を含む「建部遯吾」の記事については、「建部遯吾」の概要を参照ください。
- 時論家としてのページへのリンク