旧体制の崩壊とフエロの撤廃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/05 09:40 UTC 版)
「フエロ」の記事における「旧体制の崩壊とフエロの撤廃」の解説
カルロス3世はスペイン国内の市場統一を優先課題とし、1779年と1789年の改革によってバスク地方の関税免除を撤廃した。産業革命を通じて綿織物工業に毛織物工業に変化すると、ビスケー湾の交易拠点港はビスカヤのビルバオからカンタブリアのサンタンデールに移った。ナポレオン戦争中の1808年にはスペイン議会の親仏派によってバイヨンヌ憲法が制定され、1812年には反仏派によってスペイン1812年憲法(カディス憲法)が制定された。これらの憲法は中央集権的性格を有していたが、どちらの憲法も戦時下のバスク地方には事実上適用されなかった。1810年にはナポレオンがバスク地方やカタルーニャ地方をスペインのホセ1世の統治から切り離し、バスク3領域はビスカヤ軍事政府下で史上初めて共通の統治機構を有した。1814年にはフェルナンド7世が復位し、カディス憲法が無効化されてフエロが復活したが、1820年にはカディス憲法がバスク地方にも適用された。 18世紀末から19世紀初頭には相次ぐ戦争で出費がかさみ、また産業革命を経たイギリスの鉄製品との競合に苦しんだ。1820年代末、バスク地方のブルジョワはバスク経済のスペイン経済への統合とスペイン国内市場の関税保護を希求し、1831年、サン・セバスティアンのブルジョワはフエロの特権的措置の放棄とスペイン史上における自由交易の認可を提案した。この提案が認められればカスティーリャの農産物に対してバスク地方の農産物が対抗しがたく、都市部のブルジョワと農村部との利害対立が決定的となった。カルリスタ戦争ではカルリスタが「神、祖国、フエロス、国王」という標語でフエロの存続を掲げ、バスク地方の自由主義者もブルジョワ自由主義革命を妨げない範囲でのフエロの存続を願ったため、1834年に第一次カルリスタ戦争の講和として結ばれたベルガラ協定(英語版)ではフエロの存続を認められた。1839年10月25日法ではスペイン立憲王政の統一性を損なわない限り、という制限付きでスペイン国会がバスク4地方のフエロを承認し、バスク地方のフエロは事実上縮小された。ナバーラ県は1841年にフエロを廃止し、スペイン憲法の枠内で新たなフエロの体制を確立した。 1868年に起こったスペイン名誉革命後、1872年にはカルリスタがフエロの尊重を求めて第三次カルリスタ戦争を起こしたが、1876年にはカルリスタが敗走して自由主義者の勝利に終わった。戦争後には講和協定などは結ばれなかったが、1876年7月21日法ではバスク3県に対して兵役と納税を求めており、一般にバスク3県のフエロを撤廃した法律と解釈されている。この法律では限嗣相続制度などは廃止されなかったが、1877年には一般評議会と特権議会が廃止された。ナバーラ県のバスク語協会やビルバオのエウスカレリア会によってフエロ体制の復古を目指す主張(フエリスモ)がなされ、都市部の富裕層・資本家層・知識人らに支持された。王位継承問題とは切り離されて政治的にはリベラルであり、農村部に基盤を置くカルリスモとはまったく異なっていた。1878年にはスペイン政府とバスク3県との間で経済協約が結ばれたが、国税の徴収方法が各県に一任されるなど、税制面に限ってフエロを復活させる内容だったため、資本家層らによるフエリスモは衰微していった。
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