日本陸軍部隊の上陸とは? わかりやすく解説

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日本陸軍部隊の上陸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 11:20 UTC 版)

第二次上海事変」の記事における「日本陸軍部隊の上陸」の解説

詳細は「杭州湾上陸作戦」を参照 8月23日上海派遣軍の2個師団が、上海北部沿岸艦船砲撃の支援の下で上陸成功した支援艦隊の中には第六駆逐隊司令官として伏見宮博義王中佐加わっていた。9月上旬までには上海陸戦隊本部前面から中国軍駆逐する同時期に中国側第二次国共合作成立させ、日本側は華北攻勢に出るなど、全面戦争様相呈した。しかし、中国軍優勢な火力ドイツ軍顧問団によるトーチカ構築作戦によって、上海派遣軍は大苦戦し橋頭保を築くのが精いっぱいで、上海市街地まで20キロかなたの揚子江岸にしばられた。中国軍陣地堅固で、中国兵頑強だった。依然として特別陸戦隊は数倍の敵と対峙しており、居留民の安全が確保されたわけはなかった。8月26日南京駐在英国大使ヒュー・ナッチブル=ヒューゲッセン(英語版)が銃撃受けて重症負い同行大使館職員日本海軍機の機銃掃射よるものであると主張したが、日本海軍自軍による機銃掃射否定したため、イギリス対日感情悪化した8月30日には海軍から、31日には松井軍司令官から、陸軍部隊増派要請された。石原莞爾参謀本部第1部長が不拡大名目派兵しぶっていたが、9月9日台湾守備隊第9師団第13師団第101師団動員命令下された9月末までで第11師団戦死者1560名、戦傷者3980名、第3師団戦死者1080名、戦傷者3589名であった9月27日石原部長辞職決定した10月9日、3個師団第10軍として杭州湾から上陸させることを決定した10月10日上海派遣軍はゼークトラインに攻撃開始[要出典]、2日後には各所突破成功した10月26日上海派遣軍最大目標であった上海近郊要衝大場鎮を攻略し、翌27日、「日軍占領大場鎮」というアドバルーン上海日本人街上げた大場鎮を落として上海ほぼ日本軍制圧になったが、中国軍蘇州河南岸陣地構えており、第3師団第9師団強力なトーチカのため、進めなかった。 11月5日上海南方60キロ杭州湾面した金山衛に日本第10軍上陸した上陸しても、中国軍攻撃はほとんどなかった。翌6日、「日軍百万上陸杭州北岸」というアドバルーン上海の街に上げられると、蘇州河戦っている中国軍は、第10軍によって退路絶たれるかも知れず大きく動揺した11月9日中国軍一斉に退却し始めた後方にあった呉福線や錫澄線の陣地は全くの無駄になった。 日本軍の損害は、上陸から11月8日までで戦死9115名、負傷31257名に達した。続く南京への追撃戦戦死傷者18,761(第9師団のみ)、南京戦で6,177合計65,310損害となった

※この「日本陸軍部隊の上陸」の解説は、「第二次上海事変」の解説の一部です。
「日本陸軍部隊の上陸」を含む「第二次上海事変」の記事については、「第二次上海事変」の概要を参照ください。

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