日本国外における黒人説の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 06:24 UTC 版)
「坂上田村麻呂黒人説」の記事における「日本国外における黒人説の展開」の解説
1911年にカナダの人類学者アレクサンダー・フランシス・チェンバレンは“The Contribution of the Negro to Human Civilization”のなかで、歴史上人類の文明化に功績のあった黒人を紹介する際に坂上田村麻呂について短く触れている。 遠い日本で、現代の日本人の先祖はその国の先住民であるアイヌに敵対し北上していたが、その軍団の指導者が有名な将軍でありネグロでもあった坂上田村麻呂だった。 この記述の典拠がどこにあるかは記されていないが、おそらくこの記述が坂上田村麻呂黒人説の初出と思われる。 1915年には、同様にアメリカの公民権運動指導者であるW・E・B・デュボイスが“The Negro”において黒人の秀でた支配者もしくは戦士の一覧に坂上田村麻呂を加えて紹介した 。 終戦後の1946年にはBeatrice J. FlemingとMarion J. Prydによって“Distinguished Negroes Abroad”が出版された。これは田村麻呂を黒人として詳細に紹介した最初のものであった。この著作中で田村麻呂について述べている部分は、架空の日本人が二人の息子に清水寺の田村麻呂像の前で彼の偉業を語るという体裁をとっていた。 「ハルオ」父親は忠告した。「お前はヨーロッパとアメリカで教育を受けた。お前が学んだ最良のものは積極的に取り入れなさい。しかし人種や肌の色は意識せず、人を人として見ることを心掛けなさい。田村麻呂の時代の日本は人質や異人を奴隷にすることはなかった。農奴のような低い身分に格下げされていたことは確かだが、出世して成功する機会はいつでもあった。坂上田村麻呂はネグロであり、自身の性質に忠実で、立派な戦士であることを自ら証明した。彼は私たちとともに、私たちのために戦った。(中略)私たちにとっては、それゆえ彼は異人ではない。私たちは彼を外国人とはみなさない。彼は我らが日本の尊敬される戦士なのだ!」 1946年にはほかにもCarter G. WoodsonとCharles Harris Wesleyによる“The Negro in Our History”やJoel Augustus Rogersによる“World's Greatest Men of Color”において田村麻呂が黒人として取り上げられるなど、にわかに注目を浴びた。“Distinguished Negroes Abroad”において取り上げられた「清水寺の田村麻呂像」のイメージは1989年にMark Hymanによって出版された“Black Shogun of Japan Sophonisba: Wife of Two Warring Kings and Other Black Stories from Antiguity”によって具体化された。 彼が祭られている寺院において見るところでは、麻呂の像は仲間の貢献者よりも背が高かった。彼の髪は巻毛で隙間なく、目の間隔は広く茶色だった。鼻孔はふくらみ、額は広く、顎は厚く少し突き出していた。 80年代後半から90年代にかけて、“Distinguished Negroes Abroad”と“Black Shogun of Japan Sophonisba”の記述を基にした田村麻呂の伝説が黒人の情報を発信する者たちによく知られるようになった。実際には、田村麻呂を祀る清水寺田村堂(開山堂)の田村麻呂像は1633年の大火以降に作られたものであり、当然黒人の特徴は一切見られない。Mark Hymanが述べているのがこの像なのか別の像なのかは不明である。黒人説はその後も2002年に黒人の歴史研究家Runoko Rashidiによって取り上げられるなど21世紀になっても一部の黒人の研究者に信じられていた。インターネットの広がりとともに、オンラインのコミュニティーの中においてもこの「黒人の将軍」の物語はさらに広まるなど命脈を保ち続けているが、少なくとも2007年に至るまで日本のブログにおいて取り上げられることはほとんどなかった。
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