日本国内の即身仏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 06:22 UTC 版)
日本国内において、文献上確認できる即身仏の最も古い例は、長保5年(1003年)6月9日(7月10日)の大和国多武峰寺の蔵賀である。これより先に承和2年(835年)の空海の入定が挙げられることがあるが、空海の話は死後数百年経た後からの説話に現れるのみであり、『続日本後紀』などに拠り、史学的には火葬にされたと結論付けられている。高野山で即身仏の記録は、嘉保3年(1096年)の維範からである。以降、空海の伝説にあやかろうとしてか、高野山での即身仏の記録が続くが、ある時期から途絶える。次に同じ真言宗系の東北の寺院にて、即身仏の記録が多く残るようになる。現存するものも東北地方およびその寺院の信仰勢力圏内が中心である。「海」の字が含まれるものは、おおよそこの系統に属する。 ただし、上記のどの例も実物(仏)は現存していない。日本の気候条件や、保存の難しさなどもあり、現在は残っていない「史上の即身仏」の文献記録が多く残る。東京都稲城市の平尾入定塚などは、即身仏伝承の地を発掘した結果、入定した史跡であることが確認された珍しい例であり、入定の形式が確認された珍しいケースではあるが、即身仏としての遺体は発見されなかった。現存するものでも、維持保存されているのは極めて幸運なケースである。山形県の光明海上人の場合は、「死後100年経ったら掘り起こして欲しい」という言伝があったとする説に基づいて、墓地伝承地を地元の教育委員会の手により昭和53年(1978年)10月11日から三日間かけて発掘した結果、入定形式の室と一部白骨化、一部ミイラ化、という状態で発見され、新潟大学の協力により保存処理をされて現在に至っている。明治時代後期に即身仏となることを希望し入定した仏海は、死後三年後に掘り起こされることを希望していたが、明治政府が発した墳墓発掘禁止令のために、発掘(掘出)することができないままでいた。昭和36年(1961年)7月になってようやく発掘されたが、木棺と共に遺体はばらばらで発見されたため、いわゆる組み立てと保存処理が施されて、現在は安置されている。明治14年(1881年)の鉄龍海の場合も、前年に発布された墳墓発掘禁止令が問題となったが、1000日後に信者の手により秘密裏に発掘され、即身仏としての処理がなされ祀られた。信者らは没年を明治元年と偽り続け、真の没年が明らかにされたのは昭和中期のことであった。この他にも東北地方、湯殿山を中心として、即身仏の伝承が残る塚や墳墓推定地が存在するが、それらは未発掘であったり、発掘を試みた例においても遺体は残っていなかった。その他、ある時期まで現存し信仰されていたが火災で焼失した例や、見世物的に持ち出されて(出開帳。江戸時代以降流行した)大正時代に行方不明となった萬蔵稲荷神社の萬蔵の例もある。 即身仏の中には、当人が入定後に祀られることを予定していたものと、入定した遺体を掘り起して後世の人が祀った、すなわち本人が祀られることを認識・了承していなかった可能性があるものとがある。また、特に後期の即身仏は、その出生身分が当時の身分制度下では比較的低いもの、生前に仏僧としての高い地位に登っていないものが目立つ。
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