日吉寮とは? わかりやすく解説

日吉寮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 18:36 UTC 版)

慶應義塾大学」の記事における「日吉寮」の解説

慶應義塾大学設置する唯一の大学学部生向けの男子寮正式名称慶應義塾大学日吉寄宿舎2011年10月26日横浜市認定歴史的建造物認定された。 その歴史古く慶應義塾創設期19世紀末)にまでさかのぼる。 現在の設備は、慶應義塾大学予科神奈川県横浜市日吉移転した際に併せて設置された。谷口吉郎設計依頼し日吉キャンパス南側台地1937年昭和12年建設された。高台頂上にあり建物からは絶景望まれた。完成のもので北寮、中寮、南寮の3棟があり、さらに当時としては大変珍しい自家熱による寮生向けの円形浴場棟(通称ローマ風呂」)が設置された。風呂からは遠く横浜桜木町に至るまでの広大な田園風景見えたといい、東洋一学生寮」と呼ばれるにふさわしいものであったという。これには、慶應義塾開いた福澤諭吉学生寮学生自治重視していた点が影響されている。 第二次世界大戦末期には大日本帝国海軍軍令部連合艦隊司令部のための地下壕日吉台一帯掘られ慶應義塾大学日吉キャンパス軍部諸施設転用された。日吉寄宿舎例外ではなく海軍幹部宿舎として利用された。ちなみにこのとき、戦艦大和沖縄への出撃発令する電報日吉台から九州南部向けて発信されている。また、ポツダム宣言放送など大戦末期の重要電文送受信した基地として、戦争痕跡を今にとどめる数少ない重要な施設という側面もある。付近に防空壕高射砲台座跡が点在している。 終戦後進駐軍接収され進駐軍将校のための宿舎として用いられた。その際ローマ風呂浴槽埋められ即席ダンスホール作り替えられた。ホールからの眺望人気博し、特に夜間のそれは米兵達を喜ばせたとされるサンフランシスコ講和条約に伴い寄宿舎大学復した以後現在に至るまで学生宿舎として用いられている。浴槽自体老朽化しているが、浴室それ自体貴重な近代建築として保存されて今に残っている。現在は中寮のみが活用されている。 一般に慶應学生寮体育会および留学生対象したものが主であるが、本寮に限って一般学生でも入寮可能である。 学生による自治原則としているが、大学当局ともその支援を受けながら良好な関係を保っている。創立以来寄宿舎内での政治活動宗教活動厳しく禁じられており、学生たちに設立趣意徹底され196070年代学生運動時代においても他の大学寄宿舎のような紛争一切生じなかった。寮生OB親睦団体に「寮和会」がある。

※この「日吉寮」の解説は、「慶應義塾大学」の解説の一部です。
「日吉寮」を含む「慶應義塾大学」の記事については、「慶應義塾大学」の概要を参照ください。

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