教育者としての業績
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「チャン・ヴァン・ザウ」の記事における「教育者としての業績」の解説
10月、中央はザウとファム・ゴック・タック医師をハノイに召還した。彼は南部の戦場に戻りたいとの希望を出し、叶えられない場合は、カンボジアとタイに渡って南部のために後方基地を造るよう願った。2つめの願いは聞き届けられた。彼は国外から多くの越僑青年を南部に戻って戦うよう運動する一方、南部の軍民のために武器を購入して物資を供給した。 1946年末、中央はレ・ズアンを選んで南部に派遣し、「先鋒」グループと「解放」グループをひとつに統合し、武装単位を全てベトミンに併合し、全国で統一された名称を使用するようになった。旧ベトミン・新ベトミンの区別はこのときやっと無くなった。 1947年初頭、ザウは通信局の総局長としてベトバックに呼び戻された。1951年、彼は教育・訓練省に入って大学予備・高等師範部門を設立した。 1954年11月、文学師範大学と科学師範大学が設置され、彼は党の大学支部の初代書記になり、かたわら政治学・哲学・世界史・ベトナム史を講じた(現代ベトナムの師範教育のいくつかの部門の創設者と見なされている)。 1955-1956年の学期で、ザウは国から最初の教授号を授与された。1956年にハノイ総合大学(現・ベトナム国家大学ハノイ校)が成立し、彼は党のハノイ国家大学支部書記となったが、引き続きハノイ師範大学での教育にも参画した。 1962-75年の間、彼はベトナム社会科学委員会(現・ベトナム社会科学院)所属の史学院に勤めた。 1975年以降は、社会科学領域の研究を継続した。 チャン・ヴァン・ザウ教授は自宅を売却した金1,000ルオン(1ルオンは37.50グラム)でチャン・ヴァン・ザウ基金を作った。この1,000ルオンの金からの利子で、中部最南地域(ビントゥアン省)および南部ベトナムの歴史・思想史という2つの領域の研究に対して、毎年チャン・ヴァン・ザウ賞を授与している。 2010年12月16日20時17分、ホーチミン市のトンニャット病院にて死去。
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教育者としての業績
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「クリステアーヌ・ジャコッテ」の記事における「教育者としての業績」の解説
1962年9月:ローザンヌ音楽院から指名され、最初のチェンバロの音楽講座を作った。 1975年6月:ジュネーヴ音楽院の高等クラスで最初のチェンバロの音楽教授として、1999年に亡くなるまで後進の指導に当った。 スイス、ドイツ、オーストリア、オーストラリア、イタリアなど、いくつかのマスタークラスを指揮し、ボローニャ、ブルージュ、ライプツィヒ、パリ、ワルシャワなどで行われた多数の国際コンテストの審査員に参加している。
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