政治活動・社会彫刻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 21:38 UTC 版)
「ヨーゼフ・ボイス」の記事における「政治活動・社会彫刻」の解説
ボイスは人智学への接近を通じ、民主的で芸術的で霊的に動機付けられた社会という政治理論にたどりついた。彼は社会は一つの偉大な芸術的な総体であるべきだと信じ、人類の社会を意味あるものにして精神的な深みを与える鍵は芸術家が握っていると考えていた。 彼は1972年以後、急速に社会的、政治的活動を活発化させた。前年、彼は芸術アカデミーの学生らとデュッセルドルフ近郊のテニスクラブへ、森林を伐採しての拡張工事に抗議すべく行動を行い、自然保護運動を開始した。1972年に行われたドクメンタ5で、彼は『直接民主主義組織のための100日間情報センター』を会期中開設し、参加者たちと黒板に図解を書きながら討論を行った。(彼の思考を図解したこうした黒板は多く残っている。)また、この年に芸術アカデミーを放逐された彼は1974年に自由国際大学を開設、社会改革のための作業の情報センターとし、教育者として参加者に社会改革について講義しながら同時に教えられる立場にも回る教育活動を行った。こうした活動も、ボイスの中では彫刻であり、彫刻概念を拡大し、あらゆる人間は自らの創造性によって社会の幸福に寄与しうる、すなわち、誰でも未来に向けて社会を彫刻しうるし、しなければならない、という呼びかけに基づく「社会彫刻」であった。彼は文化における自由、政治におけるデモクラシーと自治、経済における友愛を理想とした。 1976年、連邦議会選挙で、『独立したドイツ人の運動連合』(Aktionsgemeinschaft Unabhängiger Deutscher)の候補として出馬した。この組織の目的は二つに分かれたドイツを統一し、NATOや東側の両方を拒否する中立国家とすることだった。この小さな組織は新しく生まれるドイツ緑の党に合流し、1979年にボイスは緑の党の欧州議会議員候補として立候補した。(もっとも、党は議席獲得に必要な5%の得票率が得られず、代表を出すことには失敗した。)1980年の連邦議会選挙ではノルトライン=ヴェストファーレン州の緑の党の名簿第一位の候補として立候補したが、またしても落選した。この間、ボイスはテレビ討論、イベント、選挙活動などで緑の党のために活動した。環境への働きかけおよび賛同者の募金により実現した1982年の「7,000本の樫の木」プロジェクトもボイスが長年続けてきた自然保護運動の延長上にあった。 1983年、1979年に調印されたSALT IIにもかかわらず西ドイツに核ミサイルが持ち込まれたことを受けて大規模な反核運動が起こったが、ボイスはこの運動の先頭に立っている。こうした活動から、ボイスは政治的敵対者たちから攻撃され、スキャンダルの渦中の人物であり続けた。 ボイスは1986年に死去したが、芸術と社会を関係させるその思想は今日まで多くの影響を美術家や建築家らに与えている。
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