政党への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 00:39 UTC 版)
フェビアンは当初、国内問題に主な関心があり、ロンドンだけが活動範囲であったが、ボーア戦争が始まる1900年頃には、対外問題も議論するようになる。フェビアンは自由帝国主義を唱えるローズベリーを支持し、「国民的効率」を目指す新党結成を計画する。その中で、ウェッブ夫妻は新党を準備するためのブレーン・トラストとして、「効率懇話会」を結成する。また、多くのフェビアン(フェビアン協会のメンバー)が、1900年の労働党の前身となる労働代表委員会結成に参加した。 こうした動きにも関わらず、協会の影響力は衰え、1903年にはH・G・ウェルズが加入すると他のメンバーと内輪もめを起こし、協会内は混乱することになる。しかし、1907年~08年にかけて、オックスフォードやケンブリッジの学生達がフェビアン主義に興味を抱き、協会は第2のブームを迎える。2つの世界大戦の期間には、第2世代のフェビアンであるR・H・トーニー、G・D・H・コール、ハロルド・ラスキが、社会民主主義思想に大きな影響を与えつづけていた。 組織が拡充する一方で、圧力団体として行政による市民への保障を重視するウェッブなど古参会員と、労働組合を媒介した民主的統治を重視するコールなど若手のギルド社会主義者との軋轢が表面化するようになる。対立の溝は埋めがたく、1915年にはコールがフェビアン協会を離脱している。 1914年に第一次世界大戦が始まると戦時下での労働者保護を目的として、労働党の党首アーサー・ヘンダーソンを委員長とする連合団体「戦時労働者全国委員会」が組織され、多くのフェビアン協会員が委員として参加した。この活動を通して労働党とフェビアン協会の連携が強まり、1915年にはシドニー・ウェッブがフェビアン協会代表として労働党執行部に加わった。1918年に労働党の新綱領が採択されるとともに、シドニー・ウェッブが執筆した政策宣言『労働党と新社会秩序』の表明によって、労働党の社会主義へのコミットメントが明確となった。翌1919年にはフェビアン協会の「基礎」も大きく改訂され、フェビアン協会が労働党の構成団体であることを明確化した。また、従来のプロパガンダ活動に加え、政策研究集団としての活動を打ち出した。 この時期、第三世界の将来のリーダーとなる多くの者がフェビアン思想に感化された。特に、インドのネールは、フェビアンの社会民主主義に基づき、独立後のインドで混合経済体制を運営した。 1928年にフェビアン協会に再合流したコールが、ヒュー・ドルトン、ハーバード・モリソン、クレメント・アトリー、ハロルド・ラスキなどとともに「新フェビアン調査局」を組織し社会主義的な政策研究を進めた。1939年に調査局がフェビアン協会に吸収されることによって、フェビアン協会が労働党のシンクタンクとして実質的に稼働するようになる。1930年代にはその他にも、ガルブレイス、ビーヴァーブルック、バートランド・ラッセル、スチュアート・チェース、ヘンリー・ウォラスが活躍することになる。 20世紀を通して労働党に常に影響力をもっており、21世紀に入ってもそれは続いている。労働党の党首およびイギリスの首相となったラムゼイ・マクドナルド、クレメント・アトリー、アンソニー・クロスランド、リチャード・クロスマン、トニー・ベン、ハロルド・ウィルソン、トニー・ブレアらがフェビアン協会のメンバーであった。ゴードン・ブラウンもその一員である。
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