政党の離合集散
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:49 UTC 版)
「1987年大韓民国大統領選挙」の記事における「政党の離合集散」の解説
6・29宣言によって全斗煥大統領の後任を決める大統領選挙は国民の直接選挙で行われることが確定し、与野党は大統領選挙に向けた態勢作りを本格化させた。 与党民正党は6月10日の全党大会で盧泰愚代表最高委員を大統領候補に決定していたが、野党民主党では態勢作りが遅れた上に候補者指名をめぐって金泳三と金大中の所謂「両金」間での対立が表面化した。両金とも一本化では合意しており話し合いが重ねられたが、双方とも出馬を譲らず結局失敗に終わった。そして10月28日、金大中は自身の出身地である全羅道の強力な支持を背景に大統領選挙出馬と新党結成を表明し、民主党を離党したことで野党勢力は事実上分裂した。そして11月12日、民主党を離党した東橋洞系議員を中心とした平民党を結成、金大中は同党の総裁兼大統領候補となった。 政界を引退していた金鍾泌元総理も7月15日に大統領選への出馬を示唆、地元である大田市を中心に活動を活発化させ、両金の決別が確実となった9月末の28日に政界復帰を表明した。そして10月30日に国民党議員などが参加した共和党を結成、同党の大統領候補になった。こうして10月までに「1盧3金」による大統領選挙の構図が固まってきた。 野党勢力の分裂は、共に民主化運動を進めてきた在野勢力にも及び、在野の主要勢力は1盧3金の中で進歩的とされた平民党の金大中候補を批判的に支持(批支)したが、民主党の金泳三候補を前提とした単一化をあくまで推し進めるグループ(候単)、既存政党に批判的な勢力による独自民衆候補の擁立を目指すグループ(独候)、など選挙への対応がまとまらず、民主憲法争取国民運動本部(国本)は分裂状態に陥った。
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