撮影・制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 08:41 UTC 版)
「一条さゆり 濡れた欲情」の記事における「撮影・制作」の解説
プロデューサーの三浦との話し合いの結果、神代は一条さゆりの出番を三分の一として、主役を別人とした映画の脚本を完成させた。一読した三浦は素晴らしい脚本であると評価したが、当初、日活の上層部は高く評価してはいなかった。前述のように厳しい経営難の中、ロマンポルノ路線を選択した日活はポルノ映画撮影を安く挙げることが求められた。そのため、お金がかかる地方ロケは基本的には行わなかったが、一条さゆりが出演する映画は大阪でのロケが必要となる。当時の日活の企画部長は神代に「どうせ地味な映画しか書けないし、作れないだろうけど、赤字にならなければ良い」と言い、撮影にゴーサインを出した。 また映画の主演を務めることになる伊佐山ひろ子は、粟津號から誘われて出演した「白い指の戯れ」はアルバイト感覚で出演しており、ポルノ映画出演を続ける気持ちは無く、演劇の世界に戻るつもりであった。しかし伊佐山は「一条さゆり 濡れた欲情」の脚本の完成後、神代とともに日活本社に報告に行った際、日活本社の重役が神代が書いた脚本を無造作に放り投げる姿を目の当たりにし、また神代が「いいんだよ、(主役は)この子で絶対いいんだよ」と掛け合う姿を見て、「ようし、やってやれ」と発奮した。また当時の伊佐山は大阪ロケを前にしてプロデューサーの三浦に対して「三浦さん、下着を買うお金がないからちょうだい」と言ってくるような状態であった。 短期間、低予算での制作が至上命題であった日活ロマンポルノは、オールロケでの制作が基本であった。「一条さゆり 濡れた欲情」も撮影所ではなくロケによる撮影によって制作された。大阪でのロケは、一条さゆりの引退興行が行われ、興行中の1972年5月7日に逮捕された福島区のストリップ劇場、吉野ミュージック等で行われた。しかし映画のかなりの部分は東京で撮影された。 ロケは監督である神代辰巳が絶対的な決定権を持つことは無く、スタッフの意見やアイデアも取り入れながら進められたが、主演の伊佐山ひろ子によれば、淀川に飛び込むハードな場面の撮影時も、神代は冷たく、憎たらしかったと述懐している。伊佐山の衣装は「渡り鳥シリーズ」で浅丘ルリ子が使い、日活に保管されていたキャバレーで着るような衣装であった。なお、渡り鳥シリーズで神代は助監督を務めていた。 また撮影の最中で、主演の伊佐山ひろ子と映画上、ストリッパーのレズショー相手役であった白川和子が喧嘩となる場面で、共に役に入り込み過ぎて真剣な取っ組み合いの喧嘩になってしまった。照明が上手く当たらない中で本気の取っ組み合いを続ける二人を,神代監督は撮影を止めず、カメラマンの姫田もやはりカメラを回し続けたというエピソードも残っている。 低予算での制作のため、日活ロマンポルノではオールアフレコ(オールアフターレコード、つまり撮影後のフィルムに後付けでセリフや音響効果をかぶせる)、また音楽も映画用の作曲は認められず、既成の音楽を使用しなければならないと決められていた。後述のように、神代はこの経費削減策のため、やむなく取られたオールアフレコ、既成の音楽使用の義務付けを逆手に取るように利用して、独自の世界を効果的に作り上げていった
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