撤去計画の撤回
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/09 10:45 UTC 版)
東武鉄道は1929年(昭和4年)日光線を東武日光まで全通させ、同年にはのちに同社の鬼怒川線になる下野電気鉄道と接続しており日光・鬼怒川方面に資本を集中投入していた。結果として伊勢崎線・東上線の延長計画は棚上げになり、渋川・高崎・伊香保地区は取り残された。同地域の交通の権益を手中にしていた東武鉄道ではあったが、当面は東京方面からの自社路線と接続できる見込みの無くなった伊香保軌道線を改良する意志はなく、買収時から営業廃止まで一貫して開業時からの運行形態ほぼそのままの時代離れした軌道線の姿が残った所以である。同じ東武鉄道の軌道線でも日光軌道線が明治期の開業以来、基幹産業である日光精銅所の貨物輸送を担い、戦後は観光ブームも相まって設備更新を積極的に実施したのと対照的に、伊香保軌道線は東武鉄道による買収後純然たる新車の投入は一切無く、創業期からの木造車の更新改造で当座をしのいだ。高崎線のレールの交換も戦後にレールの摩耗で脱線事故が頻発する様になってようやく実施する始末で、設備投資は輸送力を維持できる最小限のレベルに終始し、実質的にはほぼ放置に近い状態であった。 1935年(昭和10年)頃に乗合自動車(路線バス)への転換を前提に廃止が決定され準備に入ったが、1937年(昭和12年)日中戦争が開戦する。物資と燃料不足が予見され輸送力確保の必要に迫られたために撤去計画を白紙撤回し、輸送需要を一手に担って地域交通の主役に返り咲いた。第二次世界大戦中は軍需工場への通勤輸送で繁忙をきわめ、戦中から戦後に掛けて老朽化かつ酷使されて著しく疲弊した車両や設備を使用して運行を継続する。 終戦から数年を経て次第に物資不足や燃料不足が解消して来ると、復活した路線バスが続々と最新型の車両を投入して路線網を拡充していった。輸送力・所要時間・設備すべてに見劣りする旧式化した軌道線は存在意義を喪失してしまった。
※この「撤去計画の撤回」の解説は、「東武伊香保軌道線」の解説の一部です。
「撤去計画の撤回」を含む「東武伊香保軌道線」の記事については、「東武伊香保軌道線」の概要を参照ください。
- 撤去計画の撤回のページへのリンク