摂政、ロシア内戦
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「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」の記事における「摂政、ロシア内戦」の解説
亡命したマンネルヘイムはストックホルムに駐在する連合国の外交官と会談し、フィンランド政府の親独的傾向に反対していること、フィンランドはドイツに頼らずに独立するべきとの方針を表明した。フィンランド議会はフリードリヒ・カールをフィンランド王に決めたが、西部戦線でドイツ軍の戦況が悪化すると、連合国との関係改善と飢餓回避の食糧輸入のため、マンネルヘイムにフィンランドを代表してフランスとイギリスに行くことを求めた。マンネルヘイムはヘルシンキに戻り摂政のスヴィンヒュー、首相のパーシキヴィと会談した上でロンドン、パリを訪れた。フランスはフィンランド国会議員の選挙実施を求め、1918年の5月に行うことを約束した。イギリスは選挙実施後に独立の承認を決定することとした。マンネルヘイムは食糧の輸入許可を成功させ、ノルウェーとスウェーデンから小麦を借りて輸入した。交渉中の12月、パリにいたマンネルヘイムはフィンランドに呼び戻されて摂政になった。彼をフィンランド王にしようと考えていた君主主義者すらいた。 摂政としてマンネルヘイムは、しばしばクスター(カルル・クスター・エミール・マンネルヘイム、kustaa)の文字でサインをした。これは彼のクリスチャン・ネームであるグスタフのフィンランド表記であり、これまで長い間ロシアに仕えてきたマンネルヘイムを疑わしく思うフィンランド人がいたため、フィンランド人であることを強調するためであった。クリスチャン・ネームのエミールの部分が嫌いでありC.G.マンネルヘイム、または単にマンネルヘイムとして署名した。 彼の親類や友人には、グスタフと呼ばれていた。 1918年12月にフリードリヒ・カールは王位を辞退し、1919年5月には国会議員選挙が行われ、新しい議会はフィンランドを大統領制の共和国とする決議を7月に採択した。その間マンネルヘイムは国内では融和のため革命側に対する恩赦を行い、国防のために1919年2月に新しい徴兵法を制定し、士官学校を設立した。外交においては北欧諸国との協調を目指したが、スウェーデンとはオーランド諸島の帰属を巡る問題は解決されず対立が続いた。ロシアではロシア内戦が続き白衛軍がボリシェヴィキ政権に抵抗していた。マンネルヘイムは自国を含むヨーロッパの安全とロシア自身の為にロシアの共和国化を望み、白衛軍に応じてロシアへ進軍することを提言した。しかし、フィンランド国内でこの考えに同調する者は少なく、議会は反対した上、ロシア側の白衛軍の指導者の中にはフィンランドの独立を認めないものも存在した。 マンネルヘイムは7月の初代大統領選挙に立候補した。マンネルヘイムを支持したのは国民連合党とスウェーデン人民党のみで、政権を運営していた保守連合はカールロ・ユホ・ストールベリを候補とした。恩赦によって社会主義者の勢力が戻り、5月の選挙で200議席中80議席を獲得した社会民主党もストールベリを支持した。マンネルヘイムは大統領選挙で143対50で敗れた。 当時フィンランドはエストニアに義勇兵を派遣しており、またイギリスからフィンランド軍のペトログラード攻撃を要請されていた。マンネルヘイムはフィンランドの独立が確保されることとフィンランド東部のペツァモ()、東カレリア周辺領土のフィンランドへの帰属を条件にこの要請に応えようとしていた。東方積極的外交はこのときは認められなかった。マンネルヘイムはこれを期に公職から身を引いた。 1919年10月にロシア白衛軍のユデーニチはエストニアからペトログラード近郊まで攻め込んだが援護が取られず撤退した。マンネルヘイムはユデーニチを支援することをストールベリに求めたが、実現しなかった。ロシア内戦は赤軍の勝利で終わり、1920年にソビエト・ロシアとフィンランドはタルトゥ条約を結び国境が確定した。
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