摂政と息子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 04:09 UTC 版)
「クン・エルジェーベト」の記事における「摂政と息子」の解説
1270年5月3日、ベーラ4世は死去し、夫のイシュトヴァーン5世がハンガリー王となった。そのイシュトヴァーンは1272年8月6日に死去し、エルジェーベトは10歳の息子・ラースロー4世の摂政となった。エルジェーベトの摂政としての統治は1277年まで続いた。一方、彼女が息子を得たことは、新たな問題を生じさせた。息子のラースローは台頭してきた貴族に対抗するために、母の血統であるクマン族の社会を支持した。ラースローはクマン族の服を身に着け、クマン族の側室に囲まれていた。エステルゴム大司教ロドメールは、異教徒のクマン族とラースローの結束によって教会勢力が危ぶまれることを危惧し、ローマ教皇の援助をも得て非難したが、ラースローはこのエステルゴム大司教からのクマン族改宗の請求も退けた。同様にハンガリー貴族は遠ざけられた。後に、ハンガリー貴族の忠誠を買おうと試みたときは、代わりにクマン族が遠ざけられた。 1290年7月10日、ラースロー4世はビハール(en)での野営中、貴族に雇われたクマン族に殺された。おそらく、エルジェーベトもこの時に死亡したとみなされている。ラースローの後継者のアンドラーシュ3世の治世期の史料には、エルジェーベトに関する言及がない。よって、エルジェーベトは1290年に死去したとするのが伝統的な解釈である。
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