掛軸の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 05:20 UTC 版)
掛軸の伝来 中国の北宋時代に掛物として掛軸が用いられていた。「掛けて拝する」事に用いられ、礼拝用の意味合いが強くあったと思われる。桐箱に入れると持ち運びに容易である事と、比較的複数生産が可能であったため、掛軸は仏教の仏画用にまず普及を始めた。 掛軸の発展 日本では、すでに飛鳥時代に掛軸が仏画として入ってきているが、鎌倉時代後期に禅宗の影響による水墨画の流行から掛軸も流行していった。この流行により、掛軸は「掛けて拝する」仏教仏画の世界から、花鳥風月の水墨画など独立した芸術品をさらによく見せる補完品として発達していった。 室町時代以降、「茶の湯」の席で座敷の「床の間」にも水墨画の掛軸が多く見られるようになった。千利休が掛軸の重要性を言葉にするようになると、茶を愛する人達により掛軸が爆発的に流行するようになった。来客者、季節、昼夜の時間を考慮して掛軸を取り替える習慣が生まれた。来賓時、その場面の格式などを掛軸で表現することが重要視される考え方が生まれた。真の(さらに真、行、草)、行の(さらに真、行、草)、草の(さらに行、草)などである。 掛軸の普及 江戸時代に明朝式表具が日本へ入り、文人画には文人表装などで掛軸が華やいでいった。それと同時に、表具の技術技巧が著しく発展を遂げた。また、大和錦・絵錦唐織など複雑な文様の織物が好まれ、西陣など織物産地で次々生まれていった。18世紀には、江戸を中心とする狩野派とは別軸で京都画壇が栄えた。日本画も楽しむという価値観を持った人達に支持され、掛軸もそれにつれ、芸術価値を高めていった。肉筆浮世絵で花開いた。明治・大正期は日本画の隆盛により、掛軸もさらに大きく飛躍していった。昭和に入ると、官公庁主催であった「文展」(現:日展)と「日本美術院」などの台頭により日本画の隆盛期を迎えた。 掛軸の今 現在は非常に質の高い作品を身近に楽しめるだけの環境が整っている。掛軸は日本が誇れる伝統と文化のひとつを担っている。一般家庭における床の間は、家族の心の拠り所であり、ご来訪のお客様をもてなす大事な場所だとされる。掛軸は、家主の思いを来客に伝え、先人の想いを子孫に伝え、また、日本人の長い歴史に培われた「美」を表現する大切なお道具となった。
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