成果とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:16 UTC 版)
特別掃海隊は、元山、仁川、海州、群山および鎮南浦等で2ヶ月以上にわたって掃海作業に当たり、300キロにのぼる水路と600平方キロの泊地を啓開した。 特別掃海隊が処分した機雷は29個に過ぎなかったが、国連軍からは大きく評価されており、例えば米太平洋艦隊の報告では「掃海艇は作戦の成功に大きく貢献した」と述べられている。当時、国連軍の対機雷戦能力は大きく低下し、特に元山では機雷戦のために上陸作戦が大幅に遅延して作戦としての意義を大きく損なってしまっており、スミス少将は「この海域における制海を失ってしまった」とまで慨嘆していた。このため、日本特別掃海隊の掃海活動は、国連軍の元山上陸作戦、鎮南浦からの撤退作戦及び上記港湾を使用しての後方支援作戦等に必要不可欠であった。 この成果に対し、まず12月7日、極東海軍司令官ターナー・ジョイ中将(英語版)から大久保長官に対し掃海隊員らへの賛辞が送られており、「ウェルダン、天晴れ、まことによくやって下さいました」と最上級の称賛の辞で締めくくられた。続いて1951年1月26日には、運輸大臣から特別掃海隊に対して表彰が行われた。 しかしながら、特別掃海隊の派遣が日本国憲法第9条に違反するとの批判が出た場合に講和条約締結問題に悪影響を及ぼすことを恐れて、政府はこの派遣そのものを秘密扱いとした。唯一の殉職者である中谷烹炊長の遺族にはアメリカから約400万円(現在の約3200万円相当)が支給されたが、これには極秘任務の口止めの意味合いも含まれていたという。日本国内での航路啓開作業でも多くの殉職者が出ていたことから、1952年にはこれらの業績を後世に伝えるため、金刀比羅宮に掃海殉職者顕彰碑が建立され、中谷烹炊長の名前も刻まれているが、特別掃海隊派遣中の殉職であることは知らされなかった。その後、大久保元長官たちの運動もあって、殉職後29年を経た1979年秋の戦没者叙勲で勲八等白色桐葉章が贈られたが、これも新聞発表は行われなかった。 なお、国連軍の指示に従わず帰投した能勢事務官は1951年1月に運輸事務官を退職することとなるが、1952年7月に海上保安官として採用され、同年8月西部航路啓開隊司令に任じられる。その後は、海上自衛隊に入隊し横須賀地方総監部副総監等を歴任し、1959年に退官する。また、第5掃海隊指揮官の大賀良平運輸事務官は、その後も海上警備隊員、警備官、海上自衛官に進み、1977年に海上幕僚長となる。
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