懲役7年が確定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:17 UTC 版)
「京都・大阪連続強盗殺人事件」の記事における「懲役7年が確定」の解説
廣田は一連の犯行で、窃盗・銃刀法違反・火薬類取締法違反・強盗傷人・強盗未遂の罪に問われた。同年10月16日、京都地裁第3刑事部(吉田治正裁判長)で初公判が開かれたが、被告人の廣田は盗まれた拳銃を所持していたことこそ認めたものの、それ以外の犯行については「みんな警察の作り事だ。真犯人は別にいる」として、起訴事実を全面的に否認した。そのため、18回にわたる公判では廣田の犯意・計画性・実行行為など、犯罪の事実認定をめぐる攻防が繰り広げられた。また公判中、京都拘置所に勾留されていた廣田は、『人民新聞』に「公安の実態を暴く これが警察の内状だ」と題した投書を寄稿し、その中で冤罪を訴え、西陣署長の小西を名指しで非難するとともに、「出所した折りは、私は京都府警に対し「ふくしゅう」をしてやるつもりでいます。そうでなければ私は死んでも死にきれないのです。」など、京都府警への怨嗟を綴っていた。同紙に投書を寄せたきっかけは、拘置所時代に連合赤軍の加藤倫教と知り合ったことだが、公安関係者や、同事件で弁護人を務めた堀和幸(後に115号事件でも弁護人を担当)は、「廣田は思想的に新左翼に傾倒していたわけではなく、反権力・反警察という点で新左翼と利害が一致したにすぎない」と考察している。 1980年(昭和55年)3月3日の公判で、廣田は検察官から懲役8年を求刑された。一方、廣田の弁護人を務めた堀は同年3月24日の最終弁論で、「廣田の自白以外に確たる証拠はなく、その自白も信用性が低い」として無罪を主張、廣田本人も最終意見陳述で「警察側の証人は、裁判所の判断を誤らせようと、故意に真実を隠したりして全く卑怯だ。検察官の求刑には“ノシ”を付けて返したい」などと陳述した。 京都地裁第3刑事部(吉田治正裁判長)は同年6月10日、廣田に懲役5年(刑期に未決勾留日数650日を算入)の実刑判決を言い渡した。同地裁は、捜査段階における廣田の自供が、各種状況証拠と一致することや、廣田が信頼していた上司から説得を受けて自白に至ったという経緯などから、自白の任意性・信用性を認定した上で、拳銃も部外者が盗み出すことは不可能な状態だったことも併せ、「内部の者による極めて短時間の犯行」として、一連の事件を廣田の犯行と認定した。その上で量刑理由では、犯行動機となった巨額の借金は廣田自身が招いた事態である点や、市民を犯罪から守るべき立場の現職警察官による悪質な犯行であり、刑事責任が重大である点を指摘した一方、犯行が「無計画・衝動的」なものであり、社会的制裁を受けている点などを考慮した。同日、廣田は京都地裁へ護送された際、群がる報道陣に唾を吐きかけ、蹴り上げようとしていた。同月21日、京都地検は量刑不当を理由に控訴した。一方、無罪を主張していた廣田は控訴せず、弁護人を担当した堀に対し「もう裁判はあきらめます。早く服役し、出所して警察の腐敗ぶりを告発したい」と発言していた。その後、廣田は控訴審の公判には出廷しなかった。 大阪高等裁判所第4刑事部(吉川寛吾裁判長)は1981年(昭和56年)2月19日、「派出所主任という地位にある現職警察官が犯した重大かつ悪質な犯罪」「言語道断の犯行で、市民に与えた不安は大きい。反省もしておらず、一審の量刑は軽すぎる」として、原判決を破棄自判し、廣田に懲役7年の実刑判決を言い渡した。廣田は上告を勧める弁護人に対し、「検察も裁判所も信用できない。服役して出所後のことを考える」と答え、上告することなく同判決が確定した。
※この「懲役7年が確定」の解説は、「京都・大阪連続強盗殺人事件」の解説の一部です。
「懲役7年が確定」を含む「京都・大阪連続強盗殺人事件」の記事については、「京都・大阪連続強盗殺人事件」の概要を参照ください。
- 懲役7年が確定のページへのリンク