徳育論争とは? わかりやすく解説

徳育論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:04 UTC 版)

修身」の記事における「徳育論争」の解説

しかし、このような流れ素直に受け入れられたわけではなかった。早くは、先に述べたように伊藤博文が『教育議』によって儒教主義教育への回帰反発しまた、福沢諭吉1882年明治15年)に『徳育如何』という論文発表して、「道徳教育国民自主的な議論基づいたのであるべきだ」と反論加え、「儒教主義教育根源となっている信仰服従精神」を批判したまた、西村茂樹も『日本道徳論』(1887) で「儒教は『やってはいけないこと』ばかりを教えており、自主性育たない」と指摘した。なお、先に述べたように彼は修身科教科書として『小学修身訓』を書いたが、これは西洋東洋哲学倫理観をうまく組み合わせて折り合いつけようしたものであって儒教主義一辺倒のものではなかった。 初代文部大臣であった森有礼また、このような儒教主義批判的立場にあった。彼は道徳教育に「自発性」を求め忠孝道徳暗記強要する儒教主義には限界があると主張し1887年明治20年)に刊行した倫理書』で「自分と他人は常に助け合って生きている」という自他併立の倫理観発表したまた、道徳教育修身科によって言葉教え込むよりも、体育のような「体で覚えさせえる」教科によって行われるべきだとした。 また、別の立場主張存在した例えば、杉浦重剛は『日本教言論』(1887)の中で、儒学洋学基礎として日本古来倫理観に基づく道徳教育をすべきだと主張したまた、加藤弘之1887年明治20年)に『徳育方法案』を発表し、「道徳教育宗教中に求める」ことを主張した彼によると、道徳教育において一番大切なのは「愛国心」を育てることであり、そのためには儒教だけではなく神道仏教キリスト教なども組み合わせて教育を行うべきであるとした。 このように1880年代起こった道徳教育に関して議論を「徳育論争」と呼ぶが、能勢栄はこの様子をみて、「どの論も甲乙付けがたく、限りがない」といったという。そして、彼はこの徳育論争のまとめとして1890年明治23年)に『徳育鎮定論』を刊行したその内容は、洋学主義儒教主義といったような「ただ1つ主義決めて道徳教育をおこなう必要はない」と主張し日本人が昔から持っているコモンセンス」を大切にして道徳教育を行うべきだというものであったこのように道徳教育に関する議論収束することなく混迷極め1887年明治20年)に教科書によらないように「小学教則」が改正されると、修身教育無軌道陥った。 しかし、結局、『教育聖旨』という天皇の名によって発せられた方針抗うことはできず、その儒教主義的な教育内容変えることはできなかった。さらに、1889年明治22年)に森有礼暗殺されると、政府内部からもへの批判表面化することとなる。こうして、その翌年1890年明治23年)には『徳育涵養ノ義ニ付建議』が提出され、『教育勅語』の渙発なされる事態解決迎えおおむね儒教的思想基づいた内容となった

※この「徳育論争」の解説は、「修身」の解説の一部です。
「徳育論争」を含む「修身」の記事については、「修身」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「徳育論争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「徳育論争」の関連用語

1
4% |||||

徳育論争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



徳育論争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの修身 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS