徳育論争
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しかし、このような流れが素直に受け入れられたわけではなかった。早くは、先に述べたように伊藤博文が『教育議』によって儒教主義的教育への回帰に反発し、また、福沢諭吉も1882年(明治15年)に『徳育如何』という論文を発表して、「道徳教育は国民の自主的な議論に基づいたものであるべきだ」と反論を加え、「儒教主義的教育の根源となっている信仰や服従の精神」を批判した。また、西村茂樹も『日本道徳論』(1887) で「儒教は『やってはいけないこと』ばかりを教えており、自主性が育たない」と指摘した。なお、先に述べたように彼は修身科教科書として『小学修身訓』を書いたが、これは西洋と東洋の哲学・倫理観をうまく組み合わせて折り合いをつけようとしたものであって、儒教主義一辺倒のものではなかった。 初代文部大臣であった森有礼もまた、このような儒教主義に批判的立場にあった。彼は道徳教育に「自発性」を求め、忠孝道徳の暗記を強要する儒教主義には限界があると主張し、1887年(明治20年)に刊行した『倫理書』で「自分と他人は常に助け合って生きている」という自他併立の倫理観を発表した。また、道徳教育は修身科によって言葉で教え込むよりも、体育のような「体で覚えさせえる」教科によって行われるべきだとした。 また、別の立場・主張も存在した。例えば、杉浦重剛は『日本教育言論』(1887)の中で、儒学と洋学を基礎として日本古来の倫理観に基づく道徳教育をすべきだと主張した。また、加藤弘之も1887年(明治20年)に『徳育方法案』を発表し、「道徳教育を宗教の中に求める」ことを主張した。彼によると、道徳教育において一番大切なのは「愛国心」を育てることであり、そのためには儒教だけではなく、神道、仏教、キリスト教なども組み合わせて教育を行うべきであるとした。 このように1880年代に起こった道徳教育に関しての議論を「徳育論争」と呼ぶが、能勢栄はこの様子をみて、「どの論も甲乙付けがたく、限りがない」といったという。そして、彼はこの徳育論争のまとめとして1890年(明治23年)に『徳育鎮定論』を刊行した。その内容は、洋学主義や儒教主義といったような「ただ1つの主義を決めて道徳教育をおこなう必要はない」と主張し、日本人が昔から持っている「コモンセンス」を大切にして道徳教育を行うべきだというものであった。 このように、道徳教育に関する議論は収束することなく、混迷を極め、1887年(明治20年)に教科書によらないように「小学教則」が改正されると、修身教育は無軌道に陥った。 しかし、結局、『教育聖旨』という天皇の名によって発せられた方針に抗うことはできず、その儒教主義的な教育内容を変えることはできなかった。さらに、1889年(明治22年)に森有礼が暗殺されると、政府内部からも森への批判が表面化することとなる。こうして、その翌年の1890年(明治23年)には『徳育涵養ノ義ニ付建議』が提出され、『教育勅語』の渙発がなされると事態は解決を迎えおおむね儒教的思想に基づいた内容となった。
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