徳と恐怖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 03:30 UTC 版)
「公安委員会 (フランス革命)」の記事における「徳と恐怖」の解説
何れの時代においても、公安委員会のような革命政府に対しては相反する評価がなされるのが常で、つまり熱烈に称賛するか、全面的に嫌悪するかのどちらかであった。革命独裁と恐怖政治は切り離すことができない。ルイ・ブランはロベスピエールの革命独裁とエベールの恐怖政治という具合に区別しようと試みたが、フランソワ・ギゾーは革命政府は無法の政府であり無政府(アナーキー)であると厳しく断じたし、恐怖政治が革命を破滅に招いたと嘆く叙情の人ジュール・ミシュレも独裁を嫌悪した。アルフォンス・オーラール (fr:Alphonse Aulard) は、専制的独裁(恐怖政治)が緊急事態のやむをえぬ暫定的な処置だったと擁護しながらも、彼にとっては恐怖政治の指導者たちは1789年の原理への背教者に過ぎなかった。これらの人にとっては個人の自由の破壊は許し難いものだった。違法な体制への批判は彼ら以前の19世紀の自由主義者ではさらに顕著だった。革命政府を熱心に支持した歴史家の多くは、そこに社会主義の萌芽を見た人々であった。公安委員会政府がその必要を越えて平等の社会政策を推し進めて、階級闘争を始めていたことに気付いたからだ。ジャン・ジョレスはフランス革命がプロレタリアの台頭を間接的に準備した社会革命であったという像を描こうとした。アルベール・マチエはロベスピエールとその役割をもっと積極的に再評価してレーニンと対比したことで知られるが、彼は公安委員会の独裁の確立は二つの理由から起こったと解説し、まずは内乱を治めて徹底的に抑圧するために国民総動員令を成立させ、次に一般最高価格法を実行可能なものにするためだったとした。彼もまたこの独裁(政治と経済の中央集約化)は階級独裁であったと見なしたが、20世紀前半の歴史家にはこのような傾向が非常に強く見られた。また一方で、公安委員会の血まみれのやっつけ仕事が実に効率的であったという独裁の評価者も少なくなく、全体主義の先駆けを見るものもいた。王党派による公共の安全を夢見たシャルル・モーラスにとって公安委員会政府は統合主義のアンチテーゼだった。「脅威にさらされる国土、危機にある祖国、それを強力な権力行使で奇跡的に救う」という姿がフランス人の心を魅了したのだとモナ・オズーフは言ったが、そこにはロマン主義すら見いだせるのであり、祖国防衛という情景は一般に左翼のフランス人にもナショナリズムの激情を沸き起こさせた。 1794年2月5日、ロベスピエールは、人民の政府の原動力は平時においては「徳」であるが、革命時においては「徳と恐怖」の両方であると述べた。すべての善良な市民に徳の遵守を求めると同時に、徳を守らぬ国内の敵を恐怖(テロル)によって制圧しなければならないと。「徳なくして恐怖は有害であり、恐怖なくして徳は無力である」 公安委員会はマチエのいう第3革命と第4革命の期間に存在した。公安委員会政府がブルジョワジーとサン・キュロットの激しい相剋(階級闘争)の産物か、それともポピュリズムが生み出した脱線だったのか、あるいは全体のブロックの一部だったのかという論争は今も続くが、それが突然の中断を迫られ、唐突に逆行を始めたということは事実で、人民の政府は、あれだけの流血の犠牲を払った後でも、ユートピアにたどり着くことはなかった。
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