御前口演・落語協会脱退・死去
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「三遊亭圓生 (6代目)」の記事における「御前口演・落語協会脱退・死去」の解説
1973年(昭和48年)3月9日、落語家として2人目の御前公演を依頼され、香淳皇后の古希の祝いの御前で『お神酒徳利(おみきどっくり)』を上演。この年13枚組LPレコード「人情噺集成」を発表。以降、「圓生百席」に繋がる大プロジェクトになり、6代目圓生逝去まで続いた。 1978年(昭和53年)、柳家小さん会長による落語協会の真打大量昇進に抗議して同協会を脱退(落語協会分裂騒動)。多くの脱退者が落語協会に戻る中、一門で落語三遊協会を結成。この際、仲介の労を取った席亭らの顔をつぶす形となったため、以降、寄席(落語定席)には出演不能になる。 1979年(昭和54年)3月、落語家として初めて歌舞伎座独演会を開催。9月3日、79歳の誕生日、千葉県習志野市の商業施設「サンペデック(現・モリシア津田沼)」宴会場で開催された後援会の集いで小噺『桜鯛』を演じた直後、心筋梗塞を発症。同日夜半過ぎに急逝した。79歳没。 上野動物園のジャイアントパンダ(ランラン)が翌日の9月4日に死んだため、新聞(一般紙)のトップ記事はパンダのランランの訃報であったがスポーツ紙は圓生逝去の訃報を大きく取り上げた。 この訃報がパンダのランランに取られたことは、圓生の孫弟子(弟子の5代目三遊亭圓楽の弟子)である6代目三遊亭圓楽(旧楽太郎)が2011年の上野動物園のパンダのリーリーとシンシンが来日決定直後に収録された笑点のあいさつで語っている(大師匠である圓生師匠が死去直後に「パンダが死んだ、圓生も」と一括りに訃報を報道された旨であいさつしている)。 毎日新聞の見出しは「圓生師匠高座に死す」だった。 後日、サンペデック内、習志野文化ホール入口近くに圓生を偲ぶ石碑が建立された(2012年現存)。 「あたしは20世紀の生れでげすから」が口癖だったが、上にもある通り4か月ほどの差で19世紀の最後の年の生れであり、ニュアンスとしては楽屋ネタ的には「志ん生、文楽、正蔵よりは若い」といったようなところがある(5代目古今亭志ん生は10歳、8代目林家正蔵は5歳それぞれ年上)。むしろ、志ん生や正蔵が20世紀に入った後の東京弁を使っていたのに対し、圓生は(その口癖自身の中にあらわれているように)「〜げす」「〜がす」「〜やす」といった、江戸末期から明治初期の芸人が使った言葉を日常的に話した最後の噺家とされる。
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