平瀬家と平瀬露香とは? わかりやすく解説

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平瀬家と平瀬露香

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 10:11 UTC 版)

平瀬本源氏物語」の記事における「平瀬家と平瀬露香」の解説

かつて本写本所有者であった平瀬家は、赤松則村円心の子孫との言い伝え持ち大阪両替商千種屋」を営んでいた豪商で、最盛期には住友鴻池に次ぐほどの勢力誇ったとされる。しかし、住友鴻池幕末から明治時代にかけて後に財閥呼ばれるような近代的な経営体に変化していったのと比べる平瀬家は露香の時代旧態依然とした体制のままにとどまり明治以後始めた事業はほとんどが成果上げられずに衰退する一方であり、明治時代後期には平瀬家の別宅所蔵品売り立て何度も行うまでの窮乏状態になっている平瀬第7代当主平瀬露香1839年天保10年) - 1908年明治41年))は江戸時代末期から明治時代にかけての人物である。本名亀之助または亀之輔。春愛。号は露香、同学斎、桜蔭寺などと称していた。俳号丸屋貞瑛。平瀬露香はのちに平瀬家第6代当主となった平瀬宗十郎1818年文政元年) - 1866年慶応2年)、春温、士陽)と千種屋の奉公人の娘の子として生まれたものの、宗十郎平瀬家第5代当主平瀬1806年文化3年) - 1835年天保6年))の六男であり当時宗十郎当主となることなど考えられない部屋住みの身であったため父母結婚認められ実母実家帰されて露香は分家の子として育てられ、兄が早世したため宗十郎平瀬家の第6代当主となった後も正妻(露香出生後結婚した相手であって露香の実母ではない)との間に男子生まれ宗十郎男子が露香独りであったために結果的に露香は10代半ば本家迎えられて、結局平瀬第7代当主となったそのようないきさつから露香は若いときから本業(=商売)に熱心ではなく道楽走った生活をしていたともいわれており、まだ父親存命であった17歳のころには「放蕩が過ぎる」ことを理由京都天竜寺謹慎のために預けられたこともある。さらに父親死去して家督相続した後も支配人から理由付けられ明治元年から二年にかけて一度隠居させられている。このような複雑な事情で露香は第7代当主となったが、当主となった後もさまざまな事業の運営のほとんどは前代からの従業員たちに任せきりであり、これは同人平瀬家の当主となるまでの複雑な事情加え同人道楽ふけっていた素行不安視する人物平瀬家の中にも多かったためであると見られている。そのため同人第三十二国銀行設立し日本火災保険設立して社長をつとめるなど著名な実業家ではあった一方で本業よりもむしろ俳諧和歌書画茶道能楽など諸芸通じており、大阪博物場長をつとめるなどさまざまな文化的活動とそれに関連した文物収集知られ人物であり、「最後粋人」などとも呼ばれていた。

※この「平瀬家と平瀬露香」の解説は、「平瀬本源氏物語」の解説の一部です。
「平瀬家と平瀬露香」を含む「平瀬本源氏物語」の記事については、「平瀬本源氏物語」の概要を参照ください。

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