平瀬家と平瀬露香
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かつて本写本の所有者であった平瀬家は、赤松則村(円心)の子孫との言い伝えを持ち、大阪で両替商「千種屋」を営んでいた豪商で、最盛期には住友や鴻池に次ぐほどの勢力を誇ったとされる。しかし、住友や鴻池が幕末から明治時代にかけて後に財閥と呼ばれるような近代的な経営体に変化していったのと比べると平瀬家は露香の時代、旧態依然とした体制のままにとどまり明治以後に始めた事業はほとんどが成果を上げられずに衰退する一方であり、明治時代後期には平瀬家の別宅や所蔵品の売り立てを何度も行うまでの窮乏状態になっている。 平瀬家第7代当主の平瀬露香(1839年(天保10年) - 1908年(明治41年))は江戸時代末期から明治時代にかけての人物である。本名亀之助または亀之輔。春愛。号は露香、同学斎、桜蔭寺などと称していた。俳号は蘆の丸屋貞瑛。平瀬露香はのちに平瀬家第6代当主となった平瀬宗十郎(1818年(文政元年) - 1866年(慶応2年)、春温、士陽)と千種屋の奉公人の娘の子として生まれたものの、宗十郎は平瀬家第5代当主平瀬水(1806年(文化3年) - 1835年(天保6年))の六男であり当時の宗十郎は当主となることなど考えられない部屋住みの身であったため父母は結婚を認められず実母は実家に帰されて露香は分家の子として育てられ、兄が早世したために宗十郎が平瀬家の第6代当主となった後も正妻(露香出生後に結婚した相手であって露香の実母ではない)との間に男子が生まれず宗十郎の男子が露香独りであったために結果的に露香は10代半ばで本家に迎えられて、結局平瀬家第7代当主となった。そのようないきさつから露香は若いときから本業(=商売)に熱心ではなく道楽に走った生活をしていたともいわれており、まだ父親が存命中であった17歳のころには「放蕩が過ぎる」ことを理由に京都の天竜寺に謹慎のために預けられたこともある。さらに父親が死去して家督を相続した後も支配人から理由を付けられて明治元年から二年にかけて一度隠居させられている。このような複雑な事情で露香は第7代の当主となったが、当主となった後もさまざまな事業の運営のほとんどは前代からの従業員たちに任せきりであり、これは同人が平瀬家の当主となるまでの複雑な事情に加え、同人の道楽にふけっていた素行を不安視する人物が平瀬家の中にも多かったためであると見られている。そのため同人は第三十二国立銀行を設立し、日本火災保険を設立して社長をつとめるなど著名な実業家ではあった一方で、本業よりもむしろ俳諧・和歌・書画・茶道・能楽など諸芸に通じており、大阪博物場長をつとめるなどさまざまな文化的活動とそれに関連した文物の収集で知られた人物であり、「最後の粋人」などとも呼ばれていた。
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