平城遷都と橘賜姓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:29 UTC 版)
「平城遷都の詔」によれば、新都は「方今、平城之地、四禽叶図…」とあり、「四神相応の地」が選ばれた。藤原京は、南から北にかけて傾斜する地形の上に立地し、藤原宮のある地点が群臣の居住する地より低く、臣下に見下ろされる場所にあったのが忌避されたとみなされることもあり、また現実問題として排水が悪いなどの難点ともなった。しかしそれだけではなく、藤原京は唐との交流が途絶えた時期に造られたため、古い書物(『周礼』)に基づいた設計を行ったと考えられ、当時の中国の都城と比しても類例のないものとなっていた。実際には、30数年ぶりに帰国した遣唐使の粟田真人が朝政にくわわってこれらの問題が明らかになり、また唐の文化や国力、首都長安の偉容や繁栄などを報告したことが、藤原京と長安との差がかけ離れていることを自覚することとなって、遷都を決めた要因となったと考えられるのだ。その根底には、壮麗な都を建設することが、外国使節や蝦夷・隼人などの辺境民、そして地方豪族や民衆に対して天皇の徳を示すことに他ならず、国内的には中央集権的な支配を確立するとともに、東夷の小「中華帝国」を目指したものに他ならなかった。9月、元明天皇はみずから平城の地を視察し、造平城京司の長官ら17名を任命、10月には伊勢神宮に勅使を派遣して新都造営を告げ、11月、平城宮予定地のため移転させられる民家に穀物、布を支給、12月には地鎮祭を行い、造営工事を開始した。 この年(和銅元年)、遷都を主導した藤原不比等は正二位、右大臣に進み、不比等の後妻、県犬養三千代は女帝の大嘗祭において杯に浮かぶタチバナとともに「橘宿禰」の姓を賜った。地名や職掌にかかわる名が一般的ななかで植物の名を氏名とするのは稀有なことであり、彼女の生んだ皇子たちは橘を名のって、橘氏の実質上の祖となった。なお、これにより橘諸兄と改名した葛城王と、のちに皇后となる光明子(光明皇后)とは、三千代を母とする異父同母の兄妹にあたる。 平城京の造営工事はきわめて短期間のうちに遂行された。工事着工後の1年4か月後の和銅3年(710年)3月には平城遷都が決行されたが、このように急ピッチでの遷都が可能であったのは、寺院も含めて建物の多くが藤原京からの移築だったことによる。近年の知見では新都平城京の規模は旧都藤原京とほぼ変わらず、むしろ藤原京のほうが広いぐらいであり、長安城に比較すれば4分の1程度にすぎなかった。平城京の特色としては「外京」という左京からの張り出し部分を設けたことで、完全な矩形ではないことである。「外京」はむしろ今日の奈良市の中心街となっている。平城京に所在する建物は、唐風建築のみならず、掘立柱で板敷の高床建築で屋根は檜皮葺という前代よりの伝統的な日本風建築も多かった。
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