平城遷都以後とは? わかりやすく解説

平城遷都以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 11:29 UTC 版)

飛鳥寺」の記事における「平城遷都以後」の解説

都が平城京へ移るとともに飛鳥寺現在の奈良市移転し元興寺となった『続日本紀』には霊亀2年716年)に元興寺左京六条四坊に移すとあり、養老2年718年)条にも法興寺新京へ移すとあって記述重複している。このうち前者の「左京六条四坊」は大安寺の場所にあたることから、霊亀2年記事大安寺大官大寺)の移転のことが誤記されたもので、飛鳥寺元興寺)の移転養老2年のことと考えられている。 馬子飛鳥建てた元の寺も本元興寺称して存続し平安時代いたって朝廷から南都七大寺に次ぐ扱い受けていたことが記録に残る。江戸時代著された『本元興寺縁起』に、仁和3年887年)に焼失したとあるが、他の記録には残っていない。 11世紀ごろになる衰運見舞われる。『上宮太子拾遺記』には保元3年1158年)の記として飢饉窮して百済伝来弥勒菩薩石像多武峰妙楽寺(現在の談山神社)に売り払った記録されている。また、建久7年1196年)には雷火で塔と金堂を焼失した以後寺勢は衰えて室町時代以降廃寺同然となってしまった。法隆寺僧・訓海の『太子伝玉林抄によれば文安4年1447年)の時点飛鳥寺本尊露坐であったことが分かっている。 以降200年あまりの歴史定かではない。『元興寺安居院縁起』(1699年)には、江戸時代寛永9年1632年)に今井篤志家によって仮堂が建てられ、ついで天和元年1681年)に僧・秀意が草庵をつくり安居院号し傷んだ釈迦如来像補修したとある。江戸時代中期学者本居宣長の『菅笠日記』には、彼が明和9年1772年)に飛鳥訪ねた時の様子書かれているが、当時飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像安置されるのみだったという。しかし、近世中頃から名所記地誌に名が挙げられ延享2年1745年)には梵鐘鋳造昭和に軍に供出され現存せず)、寛政4年1792年)に参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑文政9年1826年)に大坂篤志家援助で現本堂再建など法灯を守る努力重ねられてきた。 また1956年昭和31年)からの発掘調査によって、創建当初伽藍明らかになった。現在の飛鳥寺本堂の建つ場所はまさしく馬子建てた飛鳥寺中金堂の跡地であり、本尊釈迦如来像飛鳥大仏)は補修甚だしとはいえ飛鳥時代と同じ場所に安置されていることが分かり1966年昭和41年)には飛鳥寺跡として国の史跡指定された。 なお、当寺の西には蘇我入鹿首塚がある。

※この「平城遷都以後」の解説は、「飛鳥寺」の解説の一部です。
「平城遷都以後」を含む「飛鳥寺」の記事については、「飛鳥寺」の概要を参照ください。

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