平埔族—マカット族の時代(1624年以前)
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「高雄の歴史」の記事における「平埔族—マカット族の時代(1624年以前)」の解説
今から約2000年から400年前、柴山は周囲を生みに囲まれ、遠浅の地形を形成しており、当時の高雄地区にはマカット族が集落を形成していた。1944年に小川尚義はは、マカット族為シラヤ族の支族であり、平埔族に属していると発表した。原居は鳳山地方から淡水渓(高屏渓)流域であり、その部落は高雄一帯の山岳部及び河岸に分布し、柴山、覆鼎金、桃子園、打狗港一帯が主居住地であったが、後に屏東平原の山麓地帯(現在の屏東県新埤郷、内埔郷、高樹郷一帯)、恒春、退台東方面に進出したと述べている。『台湾府志』では「鳳山八社」の記述があり、マカット族の有力な集落として放索、阿猴、塔楼、加藤、武洛、力力、上淡水、下淡水の8社群の名称が記録されている。またこれらの居住地はパイワン族の居住地に隣接しているため、パイワン族との密接な交流があったものと考えられている。 当時の高雄地区は潟湖が広がり豊富な魚介類が棲息したことから漁労採取による生活様式が誕生し、その不用物を廃棄、堆積したものが今日貝塚となって発見されている。貝塚からは動物骨格や貝殻以外に、多くの土器の破片が発掘されている。16世紀から17世紀になるとマカット族は中国や日本の倭寇の攻撃を受けるようになり、倭寇の侵入を防止するために住居の周囲に竹林を設けるようになった。竹林は防御以外に衣食住にも影響を与え、当時の高雄地区には竹林が広がっていた。その「竹林」を表す平埔語の「Takou」が閩南語により「打狗」と翻訳され、それが高雄の旧称である打狗の由来となっている。
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