平塚から浦賀の地へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 06:55 UTC 版)
歴代相続後の文明年間、都では応仁の乱(1467年)が起こり、各地では一揆が勃発する不安定な情勢の中、比叡山の僧兵により京都本願寺が破却された。 その余波は、関東にもいたり、当時、討伐の風説が流れるほどであった。それを知った当時の住職であり碩学の誉れ高き僧であった空浄は、文明元年(1469年)、平塚を逃れ、東海道から離れた現在の東浦賀に一宇を建て、阿弥陀寺の本尊を移し歴代の法灯を護った。『新編相模風土記稿』は、寺基を移してからの様子を「星霜を歴て堂宇発頽せんとす」と記している。本堂が崩れ落ちそうになるほどに厳しい時代を経て、元和元年(1615年)、空覚の代に再興を果たしている。 さらに、寛永十四年(1637年)には、本願寺第十三代良如宗主の御巡教のときに、阿弥陀寺を改め、現在の寺号である東教山乗誓寺を賜り、江戸期の浦賀の繁栄とともに、多方面にわたり更なる発展を遂げるのである。
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