工期と工法の検討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:44 UTC 版)
赤羽台トンネルは地山に開削工法(オープンカット)で建設するボックスカルバート構造であり、土木工学的に言えば平凡で、特に難しい工事とは言えなかった。しかしトンネル周辺に病院・学校・住宅地が近接するという条件で作業スペースに制約を受けた上に、作業時間は8時から18時までの昼間のみ、大型車両の通行は1日30台まで、日曜・祭日の作業禁止、通園・通学時間帯の工事車両の通行禁止という作業条件の制約を課せられることになった。出口側以外については、1984年(昭和59年)9月下旬から21時までの作業時間延長が受け入れられ、それ以外の時間帯や日曜・祭日についても騒音・振動が充分に少ない作業であれば容認されるようになった。しかし、目標とする1984年(昭和59年)度内の新幹線上野開業のためには、1983年(昭和58年)の夏休みが星美学園内の支障建物の移転工事を始める限界であった。トンネル全体としては、早い工区では1983年(昭和58年)2月に着工できたが、遅いところでは1984年(昭和59年)7月まで着工がずれこむことになった。全面的に本工事着工が可能となったのは1984年(昭和59年)9月であり、1985年(昭和60年)3月の開業に間に合わせるための土木工事完成期限は1984年(昭和59年)12月末で、通常なら約1年かかる工事を、厳しい制約条件の下でその3分の1ほどの期間で施工する超突貫工事となった。 開削工法であるため、トンネル上にある建物の一時移転が必要となった。移転対象となったのは、八幡神社社務所、星美学園小学校校舎・体育館・受付棟・司祭館・星美ホーム、都営住宅および一般住宅約70戸であった。星美学園内では、4階建て鉄筋コンクリート造の中高特別教室棟のみはアンダーピニングを行って建物下にトンネル構築を行うことになったが、それ以外の9棟延べ床面積約1万平方メートルがトンネル工事に支障することになり、校舎の移転再配置の計画を練った。その結果、トンネル工事終了後にトンネル上に短大校舎を建設することにし、それ以外のトンネル上の土地はグラウンドとして利用することになった。支障移転計画の策定と代替施設の建築工事、支障建物の撤去工事、埋蔵文化財の調査を終えて、星美学園内の工事に全面着工できたのは1984年(昭和59年)9月上旬であった。八幡神社社務所については、移転場所がなかったためトンネル本体を手前に伸ばして、その上に社務所を再建した。 トンネルの防振対策が様々な観点で検討された。軌道構造としては弾性被覆材を介してPC枕木をコンクリート路盤上に固定するB型弾直軌道が採用された。また路盤構造としては、通常はトンネルの底盤をそのまま路盤とするが、路盤をトンネル底面から浮かせるフローティングスラブ構造を採用することにした。路盤をコンクリート製の桁構造とし、トンネル底盤に設置したゴムシューで桁を支えるものである。またトンネル躯体の寸法を厚くすることにし、質量・剛性の増大により振動を抑えることにした。加えて掘削時の土留壁を連続地中壁として、トンネル完成後も存置することで地中振動遮断壁として利用することにした。さらにトンネル上部に建設される校舎については、トンネルを跨ぐ架台を構築してその上に校舎の基礎を載せることで、トンネルと校舎を絶縁する対策が採られることになった。
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