川路分館
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川路分館は、飯田市川路2366の川路公民館1階にある。その起源は1925年(大正14年)に設立された図書室であるとされている。開館日時は、水曜日の14時から17時まで、土曜日の10時から17時までである。2017年(平成29年)度の利用登録者数は194人、貸出冊数は7,466冊である。ISILはJP-1001667。 飯田市立中央図書館発行の『図書館概要』によれば、川路分館の前身は1925年(大正14年)に下川路尋常小学校(現・飯田市立川路小学校)内に設立された図書室である。しかし、1900年(明治33年)には既に同校の同窓会が文庫を設置しており、1907年(明治40年)発行の『信濃教育会雑誌第246号』には「東宮殿下御慶事記念文庫」という名称で長野県の図書館一覧に掲載されている。同書によれば当時の文庫の蔵書数は164冊であった。この文庫は1910年(明治43年)に村内8集落をめぐる巡回文庫を開始し、少しずつ蔵書を増やしていき、1921年(大正10年)には350冊に達した。 そして1925年(大正14年)、小学校の1室を借用して「図書館」と称した。この時は他村同様に青年会が運営する私立図書館であり、村立図書館の設置に向けた運動が展開されたがなかなか実現せず、1942年(昭和17年)3月に戦時体制強化のために村立川路図書館へ移行した。図書館には村を挙げた後援会が作られて蔵書の増加を図るとともに、主婦文庫を設立するなどしたが、1945年(昭和20年)に天竜川の氾濫で蔵書の一部を流失した。 1946年(昭和21年)2月、長野県図書館協会に加盟、1949年(昭和24年)には2,300冊の蔵書を有し、月3回開館していた。この間1948年(昭和23年)に川路村は公民館を設置し、図書館は公民館図書部となったが、運営は引き続き青年の手によって行われた。また連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は軍国主義的な図書の廃棄と、小学校から川路村役場への移転を指示した。1951年(昭和26年)5月の公民館報「かわじむら」は、「図書館の窓から」というコラムを掲載し、当時の図書館の様子として、一般利用は少ないものの多い日には70 - 80人の子供が来館すること、図書館が農村文化のオアシスであること、図書購入予算1万円では50冊ほどしか購入できないため協力してほしいことを紹介している。翌1952年(昭和27年)2月の公民館報は「図書館建設特集」と称し、独立した図書館の建設を訴えた。 結局、独立した図書館の建設が行われぬまま1961年(昭和36年)3月31日に川路村は飯田市と合併し、村立川路図書館は市立飯田図書館川路分館となる。ところが同年6月27日、梅雨前線に伴う集中豪雨に見舞われて天竜川が氾濫し、飯田市役所川路支所1階にあった川路分館はすべての蔵書が水没してしまった。婦人会有志が濡れた本を沢の流れで洗って干したものの、川路分館は水没図書約2,000冊をすべて廃棄する決断をした。この災害を契機に、1966年(昭和41年)4月1日、川路支所の2階の一角にささやかな分館が設置された。1982年(昭和57年)3月、川路公民館が新築され、その中に川路分館が併設された。
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