川路家での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/21 03:46 UTC 版)
天保9年(1838年)4月29日、勘定吟味役川路聖謨に4人目の妻として嫁ぎ、聖謨の養父母、実母および先妻の2男2女と同居した。弘化元年(1844年)聖謨が佐渡奉行に赴任した時は江戸で留守を守ったが、弘化3年(1846年)奈良奉行赴任時には次男市三郎、聖謨養父母と奈良に移った。 嘉永4年(1851年)6月10日聖謨は江戸に召還されたが、高子は奈良に残り、日記を書き送って近況を報告し合った。7月2日聖謨から大坂町奉行赴任を聞き、7月26日大坂東町奉行屋敷に移った。 江戸に戻り聖謨が勘定奉行となると、小石川に屋敷を賜った。聖謨が勘定奉行、外国奉行へと異例の出世を遂げる中、家事一切を引き受け、諸大名からの贈答品の応対を切り盛りした。また、この頃前田夏蔭に和歌を学んでいる。 安政6年(1859年)8月、聖謨が政争に敗れて蟄居を命じられ、小石川屋敷を引き払い、3分の1ほどの広さの番町屋敷に移った。
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