川口の渡し
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荒川・新河岸川の河岸場を結ぶ、日光御成道に属する船三艘を有する官設の渡船で対岸を結んでいた。渡船場は「岩淵の渡し」や付近に善光寺があることから「善光寺の渡し」とも呼ばれ近くに善光寺があり、信州に行かず善光寺参りが江戸近郊で手軽に済ませられるとあって渡船場は大変な賑わいだったという。存在していた時期は定かではないが、渡船料の記録によると遅くとも1780年(安永9年)までには存在していたという。付近の荒川は平水時、その川幅は60間(約109メートル)程度であった。この渡船は1905年(明治38年)3月10日の舟橋の架設により廃止された。
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川口の渡し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 06:35 UTC 版)
新荒川大橋が開通する以前は川口の渡しと呼ばれる日光御成街道に属する船三艘を有する官設の渡船で対岸を結んでいた。 渡船場は「岩淵の渡し」や付近に善光寺があることから「善光寺の渡し」とも呼ばれ、いつから存在していたかは定かではないが、渡船料についての記録から遅くとも1780年(安永9年)までには存在していたと考えられるほか、源義経がこの地を渡ったという記録(義経記)も残されている。場所は現在の橋の上流側に位置していた。また、現在の橋とほぼ同じ位置に川口河岸も設けられていた。付近の荒川は平水時、その川幅は60間(約109メートル)程度であった。近くに名所である善光寺があり、江戸市民が信州に行かずとも善光寺参りが江戸近郊で手軽に済ませられるとあって渡船場は大変な賑わいだったという。あまりの賑わいに渡船が転覆して死者が多数出た場合もあった。大名の日光参詣の際や、善光寺の開帳中には臨時に板橋の仮橋が架けられた。渡船料は安永年間は徒歩は3文、馬は一疋12文、軽尻は6文であった。また、1876年(明治9年)は徒歩は4厘、荷馬は1銭、人力車は1台8厘、仕立小船は1銭であった。この料金は1877年(明治10年)3月および1881年(明治14年)2月に改正され、1898年(明治31年)まで継続された。また、同年4月1日にも諸物価騰貴を理由として埼玉県に渡船料改正の請願が行なわれていた。船頭は川口町の高木家により運営された。この渡船は1905年(明治38年)3月10日の舟橋の架設により廃止された。 舟橋は「舟戸の船橋」と呼ばれ、1891年(明治24年)に東京府と埼玉県の許可の元、大野孫右衛門が開設した。明治初期の頃より両岸の川口および岩淵は木橋の架設を請願を繰り返していたが、架橋計画の不備や、治水上の理由から許可されなかった。舟橋は住民の要望によりその代案として設けられたものである。場所は渡船場のやや下流の位置に設けられた。長さは66間(約120メートル)、幅は7尺5寸(約2.27メートル)で、船を11艘並べてその上に板を渡したものであった。荒川を通る船の通航を妨げないよう、南寄り4艘は橋を廻転させて開閉出来るようになっていて船や筏の通行の際は人馬の往来は抑止された。また、大水が出ると橋は撤去されるため渡河は不可能であった。昭和初期の渡橋料は徒歩は1銭、人力車は2銭、自転車は3銭、荷馬車は8銭であった。また、1日当たりの通行量は徒歩は2000人、人力車は20台、自転車は250台、荷馬車は30台で、1日平均の収入は30円30銭程度であった。なお、鋳物などの重量物の運搬は渡し船を用いて対岸で積み替えたか、千住(千住新橋)に迂回した。大正末期の頃には橋が老朽化し、1926年(大正15年)橋の修繕費の調達を理由に渡橋料の10割値上げも検討されたが、沿岸住民の反対により料金は徒歩は据え置かれ、他は値下げされた。この値上げが後の本格的な架橋への運動にもつながった。この舟橋は1928年の新荒川大橋の架設により廃止された。
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