川上との衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 20:01 UTC 版)
広岡は自身の野球の原点を「プロの厳しさを『嫌』というほど思い知らされた入団当時の巨人軍の野球」としているが、現役時代は川上哲治との衝突が絶えなかった。川上は「打撃の神様」と呼ばれた大選手だったが一塁守備は下手で、しかも守る姿勢を取らずに打撃フォームを取ったまま捕球しようとし、捕球できないと首を捻っていた。この行為がやる気の無さに見えた広岡は、後輩でありながら少し悪い送球を取れないと「それくらいの球は取って下さいよ」と意見することが多くなり、川上は「若造が生意気な…」という感情を持つようになった。 1960年11月19日、巨人は監督の水原茂が辞任し、川上が新監督に就任する。川上は広岡に「今まで色々あったが水に流してくれ。これからは力になって欲しい。よろしく頼むぞ」と頭を下げ、広岡はコーチ兼任選手となった。翌年、巨人は2年ぶりにリーグ優勝を果たし、日本シリーズも南海ホークスを4勝2敗で下し、6年ぶりの日本一を達成した。その翌年、広岡は大学の先輩で毎日オリオンズを現役引退した直後の荒川を打撃コーチとして川上に推薦する。荒川は生前、「プライドの高い広岡が、犬猿の仲の川上に頭を下げてくれた。広岡には感謝してもしきれない。今でも深い恩義がある」と話していた。 1964年8月6日の対国鉄スワローズ戦(明治神宮球場)において、0対2とリードされた7回表一死三塁の場面で打席に立ったが、金田正一が投じた3球目に三塁走者の長嶋茂雄が本盗を敢行し、長嶋は本塁でアウトとなった。しかし広岡は、長嶋の本盗が川上のサインと解釈して「自分の打撃がそんなに信用できないのか」と激怒した。結局、広岡は次の球を空振りして三振すると、そのまま試合の途中で帰宅してしまう。その夜、藤田元司は広岡の自宅に電話して川上に謝罪するよう説得するが、広岡は拒否した。 同年のペナントレース終了後、川上は広岡をトレードで放出することを決断する。広岡は秋のオープン戦で遠征から外されたため、マスコミには広岡がトレード要員として大きく報じた。広岡自身は球団がトレードで自身の放出を検討していることを知ると、オーナーの正力亨の元を訪れ、「私は巨人が好きで入って、巨人から出る意志はありません。もし(トレードで)出すというなら、このまま『巨人の広岡』で辞めたいと思います」と訴える。亨はこの広岡の訴えに当惑して実父である正力松太郎に報告すると、松太郎は広岡を日本テレビの社長室に呼び出し、「君は巨人軍の広岡として死にたいのだな?」と尋ねる。広岡は間髪入れずに「はい。そのとおりです」と答えると、松太郎は「わかった。君は巨人軍に必要だ。残れ」と言い、11月25日に騒動の手打ちの意味合いで、広岡、川上らコーチ陣と共に会食を開いた。広岡は事前に亨から「いいか?当日は何もしゃべるなよ。親父(松太郎)の言葉は業務命令だから、どんなことがあっても反論しちゃいかん。言いたい事があっても言ってはいかん。誰に何を言われても沈黙を守ってくれよ」とくぎを刺されている。案の定、会食では川上が広岡に対してコーチ兼任でありながら監督に協力的でないと厳しく批判したが、広岡は亨との約束を守り、自分への批判を黙って聞いていた。しかし、広岡は後年「あの時、言うべき事を言うべきだった。私が川上監督とコーチたちと、意思の疎通を図る絶好のチャンスを自ら放棄したことを意味する」と後悔した。広岡は会食の翌日に再び亨を訪ね、残留するわけにはいかないとして現役引退を申し入れたが、亨は態度を保留した。さらに多くの球界関係者から残留するよう説得され、中でもセ・リーグ会長の鈴木龍二と東映フライヤーズ監督の水原茂は「川上に背くのはまだ良いとしよう。しかし、大正力(初代オーナー)の君に対する温情を無にしてはいかん。大正力だけは、絶対に背いてはいかん」と広岡に助言した。この助言を受けて、広岡は12月に三度亨を訪ねて残留を申し入れ、翌年もプレーすることが決まった。
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