島津忠長 (都城家)とは? わかりやすく解説

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島津忠長 (都城家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/21 03:33 UTC 版)

 
島津忠長
時代 江戸時代前期
生誕 正保2年6月2日1645年7月24日[1]
死没 寛文10年11月12日1670年12月24日
改名 幸寿丸(幼名)→忠長
別名 外記、摂津介(通称
戒名 千江院殿雪厳玄霜大居士
墓所 宮崎県都城市都島町の都城島津家墓地
主君 島津光久
薩摩藩都城私領主
氏族 島津宗家喜入氏都城島津家
父母 父:島津光久、養父:北郷久定
兄弟 綱久久定忠長、久岑、久逵、久侶、鎌田正長、久理、喜入久亮、久明、久当、久記、桂久祐、畠山基明、入来院重矩久房、久雄、税所久皎
正室:千代松北郷久直の娘)
養子:久理、養女:鶴千代(島津光久の娘)
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島津 忠長(しまづ ただなが)は、江戸時代前期の薩摩藩士。都城私領主である都城島津家17代当主。

生涯

正保2年(1645年)、江戸にて2代薩摩藩主島津光久の三男として生まれる。寛文2年(1662年)、次兄の北郷家16代当主・久定が継嗣無く19歳で早世したため、弟で喜入家の養子となっていた忠長が、島津宗家の命により北郷家を相続することとなった。この時、宗家の命により、久定の室である北郷家15代当主久直の娘・千代松を娶り、家名を北郷から島津へと改めたので、それ以降、都城島津家と称するようになった。ただし、島津を称したのは都城領主である本家だけであり、その他の庶流は以後も北郷を称し続けた。

父である藩主・光久は、都城島津家は代々島津宗家に忠節を尽くしておりその家名を汚すことのないようにすること、都城は他藩に接しており防備に心を配ること、文武を怠らないことなどの教訓書を忠長に与えている。忠長は英邁で武を好み、光久に従い江戸へ赴いた時、槍術を湯浅武兵衛に、軍法を澤崎主水に学び奥義を極めたとされるが、寛文10年(1670年)、江戸にて26歳で病死した。継嗣なく、八弟の久理が家督を相続した。

脚注

  1. ^ 『鹿児島県史料拾遺 18』鹿児島県史料拾遺刊行会、1985年、p.68。

参考文献

  • 本藩人物誌 鹿児島県史料集第13集』鹿児島県立図書館、1973年
  • 瀬戸山計佐儀『都城島津家歴代史 全』三州文化社、1992年
  • 『都城市史』
  • 『都城盆地 史跡ガイドブック ①旧都城市編』南九州文化研究会、2014年



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