履歴と業績
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1669年、ヴェネツィアのギリシャ貴族の家系に生まれる。1691年にアカデミア・デリ・アニモッシ(Academia degli Animosi)の創設者の一人となり、程なくアルカディア派に入会。1695年、初めてのオペラ台本「幸福な欺き」を書き、翌年にカルロ・フランチェスコ・ポッラローロの作曲で上演され成功を収める。1705年にピエトロ・パリアーティと共同で「アンティオコ」の台本を書いて大成功し、オーストリアから宮廷詩人に招かれるがこれを断る。1710年に「イタリア文学新聞」を共同で創刊する。1718年に神聖ローマ皇帝カール6世の招きでウィーンに赴き、宮廷詩人となり、多くのオペラやオラトリオの台本を書き、その殆どはアントニオ・カルダーラが曲を付けた。1729年、職務を退いてヴェネツィアに帰り、後任はピエトロ・メタスタージオとなった。 ゼーノの台本は荒唐無稽だった従来のヴェネツィアのオペラに筋道を与え、その後のオペラ・セリアの様式の先駆となったものと評価されている。
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履歴と業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 05:58 UTC 版)
ラントはレンベルク(今日のウクライナにおけるリヴィウ)で生まれた。家族とともにオーストリアに移住した後、ウィーンにあったポーランド語話者向けのギムナジウムで学んだ。1924年にウィーン大学に入学、ハインリッヒ・ゴンペルス(英語版)、モーリッツ・シュリック、ルドルフ・カルナップといった面々に哲学や論理学を学ぶ。1928年に学位を取得。学部卒業後もカルナップを含むウィーン学団のメンバーたちとのつながりを保ち続けた。 博士論文を執筆している期間もラントはウィーン学団の会合に定期的に参加。メンバー間で行われていた議論を記録しながら積極的に活動していた(一番活発に関わっていた時期は1930年から1935年まで)。また1930年から1937年の間、ウィーン大学の精神神経科の病院で働きつつ、同時に心理学の研究にも従事。生活費は学生の家庭教師や大人向けの教養講座などで稼いだ。博士論文が審査を通った翌1939年にはクラクフの学会(1936年)で報告して以来の懸案だった義務論理に関する論文を完成させ、雑誌に発表する。
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