尚質の頒封
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「尚質の頒封」の解説
1654年7月、清は尚質の冊封を正式に決定した。冊封の形式は冊封使が琉球に出向く頒封で行うこととし、正使張学礼、副使王垓が任命され、謝必振と馬宗毅、蔡祚隆らとともに北京を出発した。明から清への王朝交代期、社会が混乱する中で琉球など外国からの使節が滞在する施設の多くは痛みが進んでいた。1653年から清は外国使節の滞在施設である北京の会同館の修復を始めていた。発足間もない清としては政権の安定化に資すると判断して、琉球を始めとする各国との関係構築を急いでいた。 冊封使は1655年3月、福州に到着する。しかしそこで問題が発生した。冊封使の琉球渡航用の船が調達できず、しかも福建周辺は鄭成功の反清活動が活発化し、鄭成功の勢力が制海権を握っていたために渡海が出来ない状況が続いたのである。清は1656年、海禁を強化する命令を出し、1661年には遷海令を出すなど鄭氏勢力の鎮圧に躍起となった。その中で1659年閏3月、順治帝の了承を得て冊封正使張学礼、副使王垓はいったん任務を解かれて転職した。これは明代に続いた領封と頒封との議論が蒸し返されたものだと考えられている。費用がかさみ、その上、海を越えていくリスクも高い頒封をあえて行うことの是非が問われたのである。しかも今回は琉球側も頒封に消極的であることは明らかであった。1659年の時点では頒封消極派が有力となり、その結果として尚質の冊封使はいったん解任された。 琉球側は1653年に送り出した慶賀使の馬宗毅、蔡祚隆たちの消息を知るために、しばしば清に使節を派遣した。しかし馬宗毅らを引き取って琉球に帰ることは認められなかった。これは事実上の人質扱いであり、このよう中で1659年6月、馬宗毅は福州で病死する。1661年1月、順治帝が亡くなり康熙帝が跡を継ぐ。この年、明の残存勢力(南明)で最後まで残った永暦帝の身柄を清が確保した。またこの年からは清の攻勢から体勢を立て直すため、鄭成功は台湾への攻撃を本格化させていた。このように清への代替わりの流れが強まる中で琉球を巡る情勢に変化が見えて来た。清は改めて尚質の冊封を冊封使が琉球に赴いて行う、頒封で行う決定を下した。 1662年、いったん冊封使を解任されていた正使張学礼、副使王垓は冊封使に再任され、琉球に派遣されることになった。康熙帝の名で尚質に出された勅書では、福建の地方役人と正使張学礼、副使王垓のサボタージュの結果、順治帝が派遣を決定した冊封使が任務を果たされないままとなってしまった。ここに事態を把握したため、関係者の処分を行い、正使張学礼、副使王垓には罪を償わせる意味も含め、改めて冊封使としての任務完遂を命じたと、冊封が遅れたことを弁明し、改めて冊封使を送る旨を説明していた。 1663年5月、冊封使の正使張学礼、副使王垓は1653年に派遣された慶賀使の蔡祚隆、そして通訳の謝必振とともに福州を発ち、琉球へ向かった。船は6月、無事に那覇港に到着した。冊封使の来琉に琉球側は驚愕する。冊封に際してはまず、琉球側から冊封を要請する請封が行われる。そして冊封使派遣の前年には冊封使を出迎えるための迎封使(接封使)を琉球側が派遣することになっている。今回は請封そのものが行われていなかった上に、清側から冊封使の派遣についての事前連絡が無かった。当然、迎封使(接封使)を派遣していなかった等、冊封使を迎える事前準備が全くなされておらず、その上、1660年には首里城が焼失して再建されていなかった。琉球側としては悪条件が重なった冊封使の来琉であったが、琉球側の事情に精通した謝必振の尽力もあって、1663年7月、無事に尚質を琉球国王に冊封する儀式が執り行われた。また懸念された弁髪など清の習慣を冊封使が強要する事態は起こらず、尚質は明の時代と変わりない皮弁冠服で儀式に臨むことが出来た。 なお清が明代とは異なり、服制や弁髪を琉球など冊封国に押し付けようとしなかったのは、清の領内では服制や弁髪を強制するのに対し、領域外ではそれらの習俗の押し付けを避けることによって、風俗習慣面からも清の領域を明確化する意図によるものと考えられている。そもそも清は明と比べて周辺諸国に対する朝貢の促しが緩く、朝貢国の数も明代に比べて激減した。
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