専門部文科の復活とは? わかりやすく解説

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専門部文科の復活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:14 UTC 版)

明治大学大学院文学研究科・文学部」の記事における「専門部文科の復活」の解説

1931年昭和6年)、明治大学創立50周年記念祝典契機文科復活運動起こった校友津村卓男を斡旋役に赤神良譲畑耕一松崎実、菅藤高徳尾佐竹猛などが参加して文科復活懇談会組織され翌年2月25日臨時商議員会および29日特別委員会で専門部文科の復活を決議文芸史学新聞の3科をもって4月開講を見るに至った文科長:尾佐竹猛)。 文芸科3年制昼間初代科長:山本有三。「生きた文学味得」をかかげ、里見弴豊島与志雄岸田國士横光利一小林秀雄舟橋聖一吉田甲子太郎今日出海土屋文明などの著名文壇人が講義担当した。「文学科」ではなくあえて「文芸科」としたのは「古典研究外国語は他の文科大学委せ主として現実の生活に即した文学に力をそゝ」ぐことに主眼置いていたからであり、実際カリキュラムでも「作家研究」「映画研究」「美術解説音楽解説」「新聞雑誌編集」などのユニークな科目用意されていた。 教授法風変わりで、実習称して歌舞伎文楽新劇音楽映画鑑賞美術館めぐりがしばしば行われた。山本有三開講の辞で「この学校出て何の資格得られないからそのつもりで覚悟しておけ」と述べたように、文部省規格縛られない自由さがあった。 史学科(3年制夜間) 科長:渡辺世祐。「国史東洋史新しき研究」を標榜講師多く帝大系で、演習を重視する学風当時専門部レベルでは珍しかった1938年昭和13年)に地理歴史科地歴科)に改組し、1941年に同科卒業生中等学校地理教員資格取得。これは他大学高等師範部にならった措置である。 新聞高等研究科1年制、昼間初代科長:小野秀雄大学または専門学校卒業者学部2年修了者入学資格としてジャーナリズム理論実際教授戦後1950年短大新聞科(2年制夜間)が設置され高等研究科の方は1952年学生募集停止1954年3月最後卒業生送り出して廃止となった演劇映画今日演劇学専攻源流1938年昭和13年)、岸田國士によって設置。しかし、当の岸田間もなく大政翼賛会文化部長に転じたこともあってほとんど学生は集まらず、事実上形骸化した。 鳴り物入り復活した文科ではあったが、しばらくは文芸科240人、史学150人の学生定員をなかなか満たせず、他の科から「こんな欠損文科なんかつぶしてしまえ」と批判されたこともあった。しかし、昭和15年度から志願者数は増加転じ太平洋戦争中地歴科学生募集一時停止しただけで(間もなく再開)、文部省から文科廃止求められることもなかった。 戦後間もなく専門部文科旧制文学部昇格させることが検討されたが、新学制への移行目前迫っていたこともあって旧制度下での文学部昇格見送られた。

※この「専門部文科の復活」の解説は、「明治大学大学院文学研究科・文学部」の解説の一部です。
「専門部文科の復活」を含む「明治大学大学院文学研究科・文学部」の記事については、「明治大学大学院文学研究科・文学部」の概要を参照ください。

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