専門部文科の復活
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「明治大学大学院文学研究科・文学部」の記事における「専門部文科の復活」の解説
1931年(昭和6年)、明治大学創立50周年記念祝典を契機に文科復活運動が起こった。校友津村卓男を斡旋役に赤神良譲、畑耕一、松崎実、菅藤高徳、尾佐竹猛などが参加して文科復活懇談会が組織され、翌年2月25日の臨時商議員会および29日の特別委員会で専門部文科の復活を決議、文芸・史学・新聞の3科をもって4月に開講を見るに至った(文科長:尾佐竹猛)。 文芸科(3年制、昼間) 初代科長:山本有三。「生きた文学の味得」をかかげ、里見弴、豊島与志雄、岸田國士、横光利一、小林秀雄、舟橋聖一、吉田甲子太郎、今日出海、土屋文明などの著名文壇人が講義を担当した。「文学科」ではなくあえて「文芸科」としたのは「古典研究や外国語は他の文科大学に委せ主として現実の生活に即した文学に力をそゝ」ぐことに主眼を置いていたからであり、実際のカリキュラムでも「作家研究」「映画研究」「美術解説・音楽解説」「新聞雑誌編集」などのユニークな科目が用意されていた。 教授法も風変わりで、実習と称して歌舞伎、文楽、新劇、音楽、映画鑑賞、美術館めぐりがしばしば行われた。山本有三が開講の辞で「この学校を出ても何の資格も得られないからそのつもりで覚悟しておけ」と述べたように、文部省の規格に縛られない自由さがあった。 史学科(3年制、夜間) 科長:渡辺世祐。「国史・東洋史の新しき研究」を標榜。講師の多くは帝大系で、演習を重視する学風は当時の専門部レベルでは珍しかった。1938年(昭和13年)に地理歴史科(地歴科)に改組し、1941年に同科卒業生の中等学校地理科教員資格を取得。これは他大学の高等師範部にならった措置である。 新聞高等研究科(1年制、昼間) 初代科長:小野秀雄。大学または専門学校の卒業者、学部2年修了者を入学資格としてジャーナリズムの理論と実際を教授。戦後の1950年に短大新聞科(2年制、夜間)が設置され、高等研究科の方は1952年に学生募集を停止、1954年3月に最後の卒業生を送り出して廃止となった。 演劇映画科 今日の演劇学専攻の源流。1938年(昭和13年)、岸田國士によって設置。しかし、当の岸田が間もなく大政翼賛会文化部長に転じたこともあってほとんど学生は集まらず、事実上形骸化した。 鳴り物入りで復活した文科ではあったが、しばらくは文芸科240人、史学科150人の学生定員をなかなか満たせず、他の科から「こんな欠損の文科なんかつぶしてしまえ」と批判されたこともあった。しかし、昭和15年度から志願者数は増加に転じ、太平洋戦争中も地歴科が学生募集を一時停止しただけで(間もなく再開)、文部省から文科の廃止を求められることもなかった。 戦後間もなく専門部文科を旧制文学部に昇格させることが検討されたが、新学制への移行が目前に迫っていたこともあって旧制度下での文学部昇格は見送られた。
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