対抗策、改善策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:10 UTC 版)
「スイープトウショウ」の記事における「対抗策、改善策」の解説
スイープトウショウの気性難は、厩舎を、池添を手こずらせていた。厩舎の人間は、レース前日になると心配で眠れなかったという。鶴留は、普通にゲートに入り、スタートしただけで万歳をしていた。厩舎は、様々な工夫を凝らしている。厩舎を挙げてとしては、スイープトウショウにレースの時期を悟られないように、レース直前にマスコミに取材規制を行っていた。 スイープトウショウは、人を乗せて馬場に行っても動かず、予定通りの調教を消化できなかった。担当厩務員の鎌田修一は、不足する運動量を補うため、鎌田が曳いて歩かせて鍛えさせていた。平地コースのみならず、坂路でも共に登っていたという。鎌田によれば、気性難は「きょうが良くても明日は」分からないものであり、一番注意を払っていることは「機嫌を損ねないように」すること、厩舎では「スイープ」と呼んでいた。またスイープの嫌いなことは「知らない人間が近づく」こと、好きな食べ物は「バナナよりニンジン」だという。 担当調教助手山田和広は、騎手を引退して間もなかった。2004年2月末に引退した山田は、師匠の坪正直厩舎で調教助手に転身。2005年2月末に坪が定年になるのに合わせて、鶴留厩舎に移籍していた。山田は移籍した2005年3月、4歳のスイープトウショウと出会っていた。初めは全く敵わなかったが、時間をかけて粘り強くぶつかって、何とか打ち解けていった。山田が来る前は、池添がレースに出向く土曜日、日曜日は調教できなかったが、山田が担当となってからは、毎日調教することができるようになり、成長が加速していた。 山田は、スイープトウショウと戦うにあたり、騎手時代に、同様に馬場入りを嫌がったブリリアントロードの経験を応用したという。ブリリアントロードは、所属していた坪正直厩舎の馬で、自身が主戦騎手を務め、調教も担当。コンビで1999年の新潟大賞典(GIII)、新潟記念(GIII)優勝に導いていた。池添は、山田の働きに対して「一時間くらい止まっちゃってもじっくりと相手をしてくれた。……山田さんが辛抱して乗ってくれるお陰で、以前は出来なかった坂路の角馬場でダクを踏んだりということも出来るようになりました。順調に調教ができるようになったのが宝塚記念制覇に結びついたといっても、大袈裟ではない」と回顧しておる。 現役期間のほとんどを管理した調教師鶴留明雄は、競馬場での、天覧競馬での膠着を、ダートコースを横切ったためであると推理している。東京競馬場は、ダートコースの内側にある入場口からダートコースを横切り、芝コースに至るが、どうやらこれが難しかったと見極めている。その後、骨折休養を経た約1年ぶりの復帰戦には、京都大賞典が選ばれたが、これは東京競馬場の毎日王冠を避けた意味合いもあった。京都は、馬場入場後すぐに芝に至る設計だった。
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