対抗文化に対する反動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 13:53 UTC 版)
「1960年代のカウンターカルチャー」の記事における「対抗文化に対する反動」の解説
カウンター・カルチャーのような若者のポジティブな文化も、反動的な保守派にとっては激怒するための材料だった。コロンビア大学のカウンターカルチャーの授業では次のように教えている。「歴史家は、アメリカの政治と社会に全体へのカウンターカルチャーの影響について反対しており、ほとんどの場合、同様の言葉で表現している。たとえば、右派のロバート・ボークは著書のなかで「現代リベラリズムとアメリカの衰退」と述べ、左派のトッド・ギッテインは著書「希望の年、激怒の日」(ニューヨーク:バンタムブックス、1987)のなかで、「勝手気まま、幼稚、非合理、自己愛的、さらには危険なもの」として特徴づける。それでも、リベラルと左派の歴史家は建設的な要素を見いだし、右派は見いだせない傾向がある」。 マッカーシーの赤狩りを支持した右派のジョン・ウェインは、1960年代の社会プログラムの側面を福祉国家の台頭と見なしていた。「わたしが南カリフォルニア大学(USC)の2年生だった20代後半、わたしは社会主義者だった。まぁ、大学をでたときはそうではなかったが。当時の平均的な大学の子供は理想主義で、みな毎日の食事にアイスクリームとケーキを食べることを望んでいた。わたしはヤツが座っているだけで福祉を受けられるべきだとは思わない。教育ある馬鹿どもが、世界が借金を負っていると思う怠惰で不平を言うヤツらに対して、なんで謝罪しているのかを知りたい。警官の顔に唾を吐く臆病者や司法の後ろを走る感傷的なのになぜ言い訳をするのか知りたい。わたしには何人かの犯罪者の命を救うためにプラカードを人々を理解することはできないし、かつ無実の犠牲者も考えられない」。カリフォルニア州の右派の元知事で、米国の第40代大統領になったネオリベラリスト、ロナルド・レーガンは、あるデモ参加者のグループのメッセージにコメントした。「彼らは「戦争ではなく愛をつくろう」というメッセージを掲げていた。唯一の問題は、彼らがどちらもおこなうことができないように見えたことだった」。60年代、保守的な生徒たちはカウンターカルチャーに異議を唱え、エドガ―・フーバーの共産主義研究、大学共和党のような学生組織に参加し、「ジェンダーの規範を強化するギリシャの行事」を組織するなど、右派の政治運動を実施した。
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