家族会の結成と安明進証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 15:00 UTC 版)
「増元るみ子」の記事における「家族会の結成と安明進証言」の解説
1982年、父の正一は定年をむかえて官舎を出なければならなくなったが、るみ子が戻ってきたときに自分の家を見つけられずに茫然としているようなことがないか心配だった。頼み込んで定年を2年延長させてもらい官舎に住み続けたが、定年後は姶良郡姶良町(現、姶良市)に移った。その後、1987年に大韓航空機爆破事件が起こり、実行犯の金賢姫が日本人拉致被害者の「李恩恵」から日本人化教育を受けたという報道があった。失踪したカップルの女性のなかの誰かではないかという報道もなされた。家族は、こうした報道がもとでるみ子が殺されてしまうのではないかと気が気ではなかった。1995年、テレビ局の記者石高健次がもたらした元北朝鮮工作員安明進の情報によれば、安は1990年から1991年にかけて平壌で市川修一を目撃したという。これは増元家にとっても大きな励みとなった。 1997年3月、東京の水産卸会社に勤める照明に父から「家族会が結成されることになったので、参加のため上京する」との連絡が入った。3月25日、家族会発足の日に集まった拉致被害者家族たちは、市川家の人びと以外は照明にとっては初対面であったが、正一と地村保志の父とは川崎敬三の行方不明者探しの番組で一緒に出たことがあり、面識があった。被害者の実名を出すか否かで話し合ったが、結局、すでに20年近くも何も動かない状況が続いており、このままでは今後も同じ状況が続くだけであり、実名を出して世間に訴えるべき時が来ている、黙っていたほうが、かえって簡単に消されてしまう可能性が高いと判断し、実名を出して活動することに意を決した。署名を集める活動がすぐさま開始された。 それまで、るみ子の話になるとすぐに涙ぐみ、メソメソと泣いていた母の信子は、みずから率先して一軒一軒回って署名を集めるようになった。彼女が積極的になったのは、これで声を大にして娘の救出を世間に訴えることができる、やっと娘を助けるために自分の力でできることを見つけた、そのような思いからであろう。るみ子の高校の同窓会にも署名依頼をおこなった。9月の鹿児島市中心部での署名活動には、嫁ぎ先の熊本県から姉のフミ子が、東京からは照明が参加した。長年家を出ていた長男信一も年老いた両親が住む家の周辺に転勤先を見つけて姶良町の両親と同居するようになり、彼もまた署名活動に参加した。2000年秋、照明は首相官邸で森喜朗内閣総理大臣に土下座して姉の救出を懇願した。森は、拉致問題を棚上げにしての日朝国交樹立はないと言明した。 るみ子の目撃情報について、脱北した元工作員の安明進が1998年に来日した際、失踪直前の写真(失踪時に車内にあったカメラのフィルムを現像した写真で、るみ子は帽子をかぶり、サングラスをかけて赤いトレーナーを着ている)を見せたところ、「知らない」といわれて増元家の人々は落胆した。安自身も、日本の警察には「似ている人を見たが、はっきりとは言い切れない」と断定を避けたという。しかし、2002年に別の写真(全身写真)を見せたところ、安は「横田めぐみと一緒に笑いながらいた女性に違いない」と証言している。これは、拉致の2カ月ほど前の写真で、父親と一緒に写ったものとしては最後の1枚であった。
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