家慶
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嘉永2年3月18日。2月27日には駒場野で練習を行った。先例と違いほぼ満月である。 『千葉縣東葛飾郡誌』では、鹿狩を慶喜公十三歳の時をもって最終とす旨記され、家慶より先に記されている。 両国橋から舟 - 千住大橋、千住新宿松戸で小休止、和名谷村金作陣屋前清水御林の下を通り御立場に着いた。和名谷は松戸市和名ヶ谷、金作陣屋は松戸市陣屋前にあった小金牧の中野牧・下野牧を管轄する役所、清水は陣屋近くの子和清水と考えられる。小金牧参照。鹿29、猪122、兎100、雉子2を得た。 『東葛飾郡史』掲載の『小金野夢物語』は現江戸川までの橋の補強、江戸川を渡るための船を連ねた「船橋」の設置、御成道の土を盛った整備と1町約100mごとの道の左右の提灯の設置、松戸の松龍寺での将軍の休息を記している。同様に、御立場は方30余間(54m以上)、高2丈5尺(約7.5m)、青々とした野芝を植えて補強し、頂上部の広さ8間余で東向き2間四方の御殿があった。勢子等の人足は各地の石高に応じて割振られ、石高から4,9992人と推定している。 『小金野夢物語』は題名と内容から庶民向けの読み物と考えられ、浮世絵・錦絵でも『小金原御鹿狩御場所図』やあくまで源頼朝の狩として嘉永元年・歌川貞秀『冨士の裾野巻狩之図』などが出されている。家斉の狩とともに、御立場・街道・谷津・土手の形状を正確に描いた図がある。 狩には、慶喜も同行し、慶喜は猪の出現も考え、豚を使って馬が豚を見ると駆け寄るようになるまで訓練したと、渋沢栄一が『徳川慶喜公伝』に記している。 この狩の時、徳川斉昭より姉小路へ書簡が送られたとの記述が福地源一郎『幕末政治家』にある。 御立場は昭和10年代まで残り、迅速測図や戦前の地形図で位置を確認できる。迅速測図では測量点として用いられ、地形図によると周囲より約7m高かった。 明治期、下野牧跡に当る習志野で、天覧の軍事演習を描いたとする『下総国習志野原大調練天覧之図』があるが、御立場と酷似した土台、近くの谷津と形が酷似した雲、多数の鹿や猪とそれらを追う兵士が描かれている。 2013年から『大狩盛典』に資料が掲載されている。 国立歴史民俗博物館歴博画像データベースで、歌川貞秀『富士の裾野巻狩之図』『冨士巻狩の図』、歌川国芳『源頼朝公富士嶺牧狩之図』、歌川景秀『冨士之裾野御狩図』、歌川芳員『頼朝公冨士巻狩之図』、歌川国安『浮絵頼朝公冨士蒔苅之図』、『小金ヶ原御用掛御役人附』の各画像は閲覧できる。
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