宣誓証言に見る決起の要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
「尼港事件」の記事における「宣誓証言に見る決起の要因」の解説
事件生存者による1920年の宣誓証言から、日本軍決起の要因に関する部分を次に引用する。 Ya.G.ドビソフ「噂によれば、日本軍は、武器引渡勧告に対して、それを議論するために軍事会議を開かなければならない、旨を回答した。3月11日の夜に、参謀長ナウモフは石川を呼び、鋭い語気で、『交渉は、もう時間切れだ。もし、明日の11時までに武器を引渡さない時は、こちらも必要な処置を取る』と、彼に言った。私はこの話を、パルチザン本部で聞いた」 G.B.ワチュイシビリ(グルジア人)「3月10日に、日本軍は、『引渡しの条件の下では、ボルシェビキは何人をも逮捕することはできない。赤軍の処刑による“人々の抹殺”のような暴力行為が行われた場合には、日本軍は、それに対して行動を起こすであろう』と、書かれたビラを配った(同様のものが、赤軍が町に入る以前にも、配布されていた)。にもかかわらず、逮捕は続き、その数は日増しに増えていった。3月11日の晩に、赤軍は、反革命による犠牲者の葬儀を、翌12日に開催するので出席するようにとの招待と、その日の昼までに、保有する武器を引渡すようにとの勧告を、日本軍司令部に通達した」 V.N.クワソフ「3月12日午前2時、私たちは、大砲、機関銃、ライフルの音で目を覚ましました。そして、眠れぬ一夜を過ごしました。翌朝、日本軍が、赤軍の武装放棄要求を拒否して、攻撃を開始したことがわかりました」 I.R.ベルマント「3月11日午後5時、島田鉄工所の管理者で日本人の森氏が、電話をかけてきた。すぐに来てくれ、という。行ってみると、彼は、龍岡氏から今聞いたばかりだという話をした。軍関係者によると、トリャピーツィンが日本軍に対し、武器および機関銃を3月12日正午までに放棄せよ、と要求してきたと言う。私は尋ねた、『どうなるのだろうか?』『私の考えでは、日本軍司令部が武器を放棄するはずがない。その先どうなるかは、私にも見当がつかない』と、彼は言った」 『ニコラエフスクの破壊』の著者グートマンは、上のような証言を含む調査報告書をもとに、「日本軍本部は、血に飢えた人々に接収された町の中で、ボルシェビキの残虐な行為に対して、不平を言い、住民を困難な状況での避けがたい死から救うことを喜んでしようとする唯一の人間的な公共機関であった」とし、およそ次に要約するようなことを述べている。「赤軍が開城合意条項を裏切り、文化教養のある層を殺戮している中で、ロシア人はひそかに日本領事を頼り、日本人居留民も、次は自分たちではないかと不安を訴えた。日本軍は、毎日のように、合意遵守の必要を赤軍本部に訴え、略奪、殺人、拘束に抗議したが、無視され続けた。そこで、『日本軍と赤軍との合意条件の下では、市民の殺人、逮捕、資産の略奪は許されない』というビラを刷って配ったが、パルチザンによって破棄された。日本軍将校が、トリャピーツィン本人に抗議したときには、『内政問題なのであなた方には関係がない』と言い捨てた。しかし、トリャピーツィンにとって日本軍は邪魔だったので、挑発して片付けてしまうことを目論み、武装解除と武器引渡しを求める最後通牒をつきつけた」 『ニコラエフスクの破壊』の米訳者エラ・リューリ・ウイスエルも、次のように述べている。「ソビエト政府は、残酷な結末となった日本軍守備隊によるパルチザン部隊攻撃が、トリャピーツィンの挑発行為によって誘発されたものであることを絶対に容認しなかった。ソビエト側の文献では、ニコラエフスク占領は、英雄的パルチザンによる誉れ高い偉業として言及されている」
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